冗長性(または差異性)は開放される。

オルメカ。

子供。

仏像群。

ART→ARS→TECHNE。

予兆が集結している状態で、今年が終わる30分前という状態で、勢いで今年を締めることにします。


今年はいろんな出来事があった一年だったな。
おおよそ7億くらいのいろんなことがあった。
その都度、僕は世界の見方をあっちに行ったりこっちに行ったりと変えなければならなかったものだ。
僕は今34歳で、それなりに自分の中でのものの見方は固まってきつつあるのだろうと思っていたけど、そんなことはないみたい。
っていうか、固まっちゃダメだ。
つまんない。

まず、今年は新しく某講座に通ったこと。
なんの講座かは内緒だけど、その講座では、「普通に生活している社会人」の人達とたくさんあったんだ。
僕はどちらかというと、「社会とのお付き合いの仕方で苦労している人達」と接する機会があ多いから、そうした自分の実存的な問題がそれほど問題になっていない人達と出会ったのは新鮮だった。
それは、僕がどれだ常識性にかけているのかを思い知らされることでもありました。
それと同時に、(僕のもともとの性格なのだけど)そうした“普通”とか“日常”とかをどうやって崩すかってのも考えることになりました。
それは、価値観を解体するってことでもあるし、まぁ、現象学的な思考の流れになるんだけど、そんななかで、感じていた一つの疑問があります。

っていうのも、「哲学は主義や主張であったためしがない」てなことをどこかの誰かがいっていたとおもうんですが、そうしたことに関する疑問です。
っていうのも、信念が対立してしまうんだ。
「私は哲学やってます」なんつー人に出会ってよく話を聞いてみると、それは単に人生論的なものだったり幸福論的なものだったり、原理を探求するっていう哲学の仕事とは全然違う、単なる信条のような主義や主張のようなものだったりするんだ。
まぁ、信条レベルだったらそれでいいんだけど、その見方によって現実がねじまげられてしまうのは耐えられない。
他人の、たちの悪いことに「客観的」と主張するような信条によって、ある人が直接的に感じている現在がねじ伏せられてしまうのはたまらない。
そんなんは、まぁ、ずっと感じて思っていて、今のこの職種を目指す動機にもなっているんだけ、そうした信念の対立に出会う、とりあえず現象学的な思考の流れに身をまかせて、現在に何が起こっているのか探ってみます。
で。
そんなん思っていたら「構造構成主義」の本に出会った。
面白かった。
なんか、現象学以降の思想史がここに集結しているみたいで、思想(“思想”って言葉もニュアンスが違うんだろうけど。。。)や哲学(“哲学”は誤解をうむからニュアンス的には違うんだろうけど。。。)のノーダルポイントになっているような気がしました。

そんなんで、主義や主張を語るんではなくて、そうした主義や主張がどんなふうに成り立っているかを考えることが必要だろうと思っていろいろ考えていたんだけど、年末に行くに従って、もう一度転回しないとならない感じになってきた。

っていうか、“信条”ってやっぱ必要なんだよな。

なんだかねぇ。
僕は今年遅刻が多いんだよ。
で。
仕事やる気にならないの。
で。
例えば仕事で問題が起こったとしても、なんだかへろへろな笑顔で、「まぁいいや」で過ごしちゃうことが多いんだ。
いや。
それは大切なコーピングであって、必要なんだよ。
白黒思考で生きにくさを感じるより、冗長性をたくさんもったグレーな思考を持っていたほうが長続きするし、なにより現実的だ。
たぶん。
大人になるっつーのはそうしたグレーな思考を身につけるってことだろうな。

でもね。
ニュアンスが違うんだ。
問題を「まぁいいや」でやり過ごしちゃうのは、単なる合理化や回避でしかないような気がするんだ。。。

自分自身にもそうした合理化の「まぁいいや」をする部分があるし、他の人の中にあるこうした「まぁいいや」に出合うことがある。


つまり、グレー思考にも二種類あるってことで、一つは此の世をドライブするためのコーピングとしての「大人のグレー思考」で、もうひとつは問題を見なかったことにするような、「合理化のグレー思考」です。


で。
ふと思ったんだけど、なんていうのか、自分自身の行動を取りまとめるような“行動の規範”みたいなものはやっぱり必要なんだな。

そうはいっても、「どこかの誰かが考えた“行動の規範”を守りましょう」とか、そういう話じゃないんだ。
それだと、単なる倫理的道徳的な話になっちゃう。
それだと、最初に問題にしたような、信念の対立に陥る可能性がある。

そうじゃなくって、なんていうのか、ようは“自律”ってことなんだけど、ああ、うまく言葉にできないな。
言葉にしようとすると、単なる説教染みた話になっちゃう。

そうじゃないんだよ。
自分で作り上げる自分の行動の規範なんだ。
だからそれは単純に善い行いってことじゃなくって、もちろんその人の欲望に従って悪い行動の規範が仕上がることもありえるだろうけど、とにかく善悪や幸不幸を抜きにして、「自分で自分自身の行動を取りまとめるような、自分で作り上げる行動の規範」です。

カントだ。
っつたら乱暴だなwww

そうした規範のことを、僕は「∂яΖ∂£。」と名づけます。

この文字に読み方はないので読めないのですが、僕のブログのタイトルでもあるのでまわりまわって自分に戻ってきたとw

narratronだw

でも。
narratronになると、出来事を自分の歴史性の中に規定してしまう傾向に陥ってしまい、そうなると出来事の偶然的な予兆性を奪ってしまう事にもなりかねないから、narratronになりかけたときは「nicht!」と、心のなかにで呪文を唱えないとならないのです。

そうしたわけで、まわりまわって、twitterの名前である「非性のnanonoid」につながります・

2010年さようなら。