ダダダダダダダダダダダ。

なんていうのか。

転回。

っつーと大げさなのかもしれませんが、僕はすごく大切なことを見落としていた気がします。

それは芸術史についてです。




そもそも。
なんとなくの違和感から始まっています。
それは、僕自身の個人史に関わるものだし、成長に関わることでもあるし、青年期特有の疑問といえばそれまでかも知れませんが、とにかく出来事に対して違和感を感じざるを得なかったんです。
その違和感は価値観そのものに対する違和感だし、社会に出て働くことに対する違和感だし、生きることに対する違和感でもあります。

“生きること”と表現すると、「なんだ、生き方の話か」となりそうですが、そういうわけでもありません。
よく生きるとか、幸福に生きるとか、充実した毎日を送るとか、そうしたことは正直どうでもいいことなんです。
・・・僕はなぜか宗教をやっている人に憑かれるらしい・・・w・・・で・・・彼らは僕に例の笑顔と親しさで迫ってくるんですが、いつも言うお決まりのせりふは「誰だって幸福になりたいでしょ?」(その裏には「だから信仰を持ちなさい」ってのがあるわけですが・・・)です。

なんでだ?
なんで幸福になんなきゃいけないの?
そもそもの違和感はこうしたニュアンスです。
何が幸福かはどうでもいいし、好き勝手にやっててくれてかまわないし、勝手に生きて勝手に死んでくれればそれでいいんです。
そういう主義や主張の類はどうでもいい。
勝手に主義を唱えて勝手に主張をして勝手に幸福になってください。
そうではなくて、僕にとってはなぜ幸福と感じるのか?不幸と感じるのか?ということのほうが疑問なんです。
もうちょっと突っ込めば、どうしてそうした価値評価が現れるのか?ということです。
ですから、それは現象するということですし、この世が現象する仕組みを知るということは、それは哲学の役目になるわけで、哲学史を振り返ることになりますし、今の仕事と関連させれば現象学やそれ以降の思想史になるわけです。




だ。


が。


しかし。





どうやら言葉や文字は(言葉と文字を一緒くたにしたらいけないとは思うけど)、発せられた瞬間から実体化しちゃうみたい。。。
まるで僕の目の前にあるこのアスースネットブックS101、別名“黄昏のざわめき”の実在感と同じように、実体化しちゃうようです。
ですから、いくら主義や主張ではなくて、それが現実の成り立ちを探るための方法なんだっていっても、言葉や文字で表現された瞬間から思想の類として捉えられてしまうみたいです。

これはいったいどうしたことだろうか?

現象を言い当てようとしても現象はその都度どっかにいっちゃう。
現象を言い当てるために言葉を紡いで、その言葉を使って分析して概念化してそれを利用して分析して概念化して・・・言葉遊びをしているような気分になってきます。
でも、僕たちの世界は言葉(記号っつったほうがいいのかなぁ)で作られているので、どうしてもこうなっちゃうのは仕方がないことでもあるわけで。。。


で。


昨年末に高橋新吉の詩を朗読したのをきっかけに、ダダイズムに興味を持つようになりました。
芸術史に詳しい知り合いの人の話だと、ダダイズムは確かに現代芸術の先駆にはなっているようだけど、もう古いようです。
僕が知りたいのは、その芸術の方法とか技法とかそういうことではなくて、現実の言い当ての手段として、どんな試みがされてきたのか?ということです。
ダダイズムのおもろいところは、いろんな価値評価から距離を置こうとしているところ。
距離を置くというか、解体しようとしているところ。
偶然性を重視するようですが、そこはやはり西洋の人の捉え方なのか、僕たち東洋の人たちが感じている偶然性の捉え方とは違っていて、彼らの捉える偶然性自体、なんだか意識中心的っぽいです。
それでも、なにか既に出来上がっている価値評価に対する抵抗やありのままの現実を表現しようという試みは、(作品うんぬんじゃなくて試みとして)とても面白いと感じます。

たぶん、現実を言い当てようとする試みは芸術史から捉えたほうがいいのかもしれません。

っつーのか、僕はその辺が抜け落ちていた。

たぶん、ダダイズム以降でみれば、思想史の流れも把握しやすいのかも。

も。

も。