『エイリアン:コヴェナント』について。

エイリアン:コヴェナント』をまた観てきた!

でね。
映画を観る直前に衝撃的な情報を得たんだ。

友人からの「『エイリアン:コヴェナント』は元祖エイリアンへのオマージュらしい」という情報だ。

正直、一瞬意味がわからなった。
頭がぐらんぐらんした。
どう理解すればいいのかわからなかった。

自分の作品へのオマージュ?
しかも、‟らしい”とついているってことは、どこかで得た不確定な情報ってことなんだろうな。
そもそも、なんだってこんな表現が成立するんだろう?

‟らしい”の根拠がどこにあるかわからないし、まずはそのソースを探すべきだろうけど、ちょっとこの表現の意味を考えてみよう。

まず、僕の中での‟オマージュ”という言葉の理解がぐらついた。
僕は、オマージュって言葉を‟影響を受けた物事に対して敬意を払う表現”と理解していた。だから、実写映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』に原作アニメと似たシーンが出てきたときには、「ああ。実写版の監督は押井氏に敬意を払おうとしているのだな」と理解したし、「カラオケ刑務所」も「カラオケ病院」に対するオマージュだと理解した(落語の話w)。でも、この意味で友人の表現を理解しようとすると、「リドリー・スコット監督は、過去の自分の作品に影響を受けて、自分の作品に敬意を払うために『エイリアン:コヴェナント』を作成した」という意味になってしまう・・・。

・・・自分で自分を褒めるなんてずいぶん自己愛の強い表現だ・・・。

そこで僕はまず、僕の中での‟オマージュ”という言葉の理解を疑ってみた。ひょっとしたら、敬意を払うという意味以外の意味もあるのかもしれない。とりあえずウィキペで調べてみた。


オマージュ(仏: hommage)は、芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事を指す用語である。
しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。ただしフランス語として使う場合は他の単語と組み合わせて「尊敬を込めた作品」の意味で使われることが多く、hommageだけでは「尊敬、敬意」の意味だけになる。


才賀師匠が高座で言っていた通りだ・・・フランス語だし、尊敬する作家や作品に対する敬意や愛情の表現らしい。
「カラオケ刑務所」は「カラオケ病院」のパクリではなく、敬愛の表現なのだ。・・・自分自身に対して敬愛を示すってことは、やっぱりリドリーは自己愛の塊ってことなのか?
でも、ひょっとしたらフランス文化圏には、普段僕らが使うオマージュという意味合い以外の使い方があるのかもしれない。
それならば、自分へのオマージュって表現にも、なにか特別な意味合いがあるのだろうな。
映画が始まるまでいろいろ調べたけど、僕はそうした意味合いを見つけられませんでした。

そして、映画が始まってからも友人の「『エイリアン:コヴェナント』は元祖エイリアンへのオマージュらしい」という言葉が頭から離れない・・・。
僕は『エイリアン:コヴェナント』の形式美みたいなエイリアンフォーマットが気に入っていて、きっと、映画の中のテーマを際立たせるために、わざわざ昔と同じことをしているのだと理解していた。単なるプロメテウスの謎解き映画ならもっと違った表現方法もあるだろうけど、あえて謎解きは放棄して、デヴィッドの動機も謎なままにして、ただただ‟創造主と被造物”、‟デヴィッド(もしくは人間)の知性と好奇心”、‟信仰とは?”ということを表現しようとしているのだと理解していた。だから、謎解き映画やSFホラー映画を求めてくる客の期待を裏切るような展開に、「リドリーやるな!」とも思ったものだ。でも、元祖エイリアンへのオマージュって・・・それじゃあ監督の自慰行為を見せられているようなもんじゃないか・・・。映画を観ながら、だんだん腹立たしくもなってきた。

ここで、この表現のソースが不明だってことに僕は気づいたんだ。
もし、監督が自分で「この映画は元祖エイリアンへのオマージュです」って言っているのであれば、自己愛的な表現と取れるだろう。でも、第三者が「『エイリアン:コヴェナント』は元祖エイリアンへのオマージュ」と言っていたらどうだろう?それなら、とっても皮肉の効いた表現だ。つまり、「この映画はくそつまんねーよ。リドリー・スコットって自分に酔ってるだけじゃねーの?昔のエイリアンと同じようなことをしやがって。はいはい。わかりました。もうオマージュってことでいいよ。ただし自分へのな!」って感じ。まぁ、こういう批評があって当然の映画ではあるけどねw

でね。
映画を観始めてしばらくは、なんかもうくだらない映画を見せられているような気分だったんだけど、だんだん、別の理解も可能なんじゃないか?って思えてきたんだ。

まず、「『エイリアン:コヴェナント』は元祖エイリアンへのオマージュ」って表現を、監督の言葉だと受け止めてみよう。
でも、リドリー・スコットは馬鹿じゃない(と思う)。
そして、それほど自己愛が強い自惚れ屋ってわけでもないとしよう(この仮定に根拠はないけど)。
そうしたうえで、自分の作品へのオマージュっていう表現を筋が通るように理解するのであれば、監督は自分の作品を、まるで‟敬意を払うべき他者の作品”のように見ているということなのかもしれない。つまり監督は、今の自分と過去の自分を分けて、過去の自分を対象化して考えているってことだ。過去の自分を対象化して、「エイリアン」のような独創的な作品を作り出した、あのときの自分自身に敬意を払っているってことだ。

この線なら腑に落ちるかもしれない。
自己愛的な表現ではなく、過去の自分を愛でる意味で、「自分の作品をオマージュ」しているということだ。
そうだ。『エイリアン:コヴェナント』においては、‟創造”って言葉がひとつのキーワードだ。
深い信仰を持っている船長がアンドロイドのデヴィッドに「何を信じている?」と尋ねるシーンがある。
その質問にデヴィッドは「創造」と答える。
創造するということは、‟(デヴィッドにとっての)創造主である人間と、その被造物であるアンドロイド”という関係を壊すための作業なのかもしれない。
それは、人間たちにおいての信仰のような意味合いがあるのかもしれないな。
そして監督は、自分が作り上げた「エイリアン」という作品に込められている創造性を大切にするために、‟自分の作品へのオマージュ”という表現をした・・・これなら意味が分かるな。ちょっと回りくどいけど、アーティストならこんな表現をするかもしれないし。

でもまぁ、このままだと根拠の薄い推論でしいかないから、まずはこの情報のソースを確認してみようかな。