目の前にたどり着けない。

道端を歩いていて、ふと頭上を見上げる。

電柱の天辺の部分が見える。。。
・・・天辺の部分は電線が繋がっていて、なんかよくわからない機械がついている。。。




職場で休憩中、ベンチに座ってボーっとしながら建物を眺める。

病院の看板が見える。。。
・・・建物の屋上のほうには大きな病院の看板があり、色あせ、すこし剥げてきている。。。





こうした光景に対して僕はまったく疑いを持ちません。
今、目の前にあるPCのモニターやキーボードの現実感と同じように、ありありとした現実感を感じることができます。

で。

も。

よく考えると、電柱の上の部分や屋上の看板の現実感は、モニターやキーボードの現実感と比べてちょっとした違いがあることに気づかされます。
モニターやキーボードはいつでも手の触れれる距離にあり、僕の手元にあり、僕の意味のつながりの中にあります。
この文章を打ち込んで画面に表示するための機械であり、もし泥棒なんかの侵入者が来たら、身を守るための武器にもなります。

これらのものはいつでも手の届く範囲にあり、僕の在り様によってさまざまな意味を持ちます。

しかし、電柱の上の方や病院の看板は、こういうわけにはいきません。

手に触れることさえ用意ではない。

手に触れるためにはいくつもの乗り越えるべき隔たりがあります。
もし僕が、「その存在をこの手で確かめたいから」との理由で電柱に登りだしたり、病院の屋上にへばりついたりしたら、「頭のおかしいヤツ」と思われて、保健所や警察のかたがたが駆けつけるでしょう。

これら手元を離れた場所にあるものたちは、日常性や常識性に守られているので、そこにたどり着くのは用意ではありません。

そのほかにも、“聳え立つ木の上の部分”とか“よく眺めてる山の中腹”とか“田んぼの真ん中あたり”とか、その現実感に疑いは持ち得ないけど実際にそこにたどり着くのは難しいというところはたくさんあります。

先日実家に帰ったとき、散歩をしながら感じていたのは、こうした彼岸性です。
生まれて長いことそこで育ったんですが、よく考えたら田舎での活動範囲ってのは限られていて、幼い頃から眺めている山々なんて登ったことさえなく、入ったことのない店もいくつかあったり、なんていう人が住んでいるのかわからない家もけっこうあります。


“とても身近にあるけれど一生たどり着けないかもしれない”という、この微妙な彼岸性は、僕たちの生活場面のいたるところで見て取れます。
もっともっと直接的な現実に目を向ければ、(意識しているかしていないかは別にして)僕はいつもこれからの行動の予定を立ててそれを実行に移すわけですが、その予定自体、まだ現実に到来していないという意味ではある程度の彼岸性を帯びているといえそうです。

どうやら僕たちは、ある程度の彼岸性を伴う現実感を一心に信頼することで、現実の現実性を成り立たせているといえそうです。




・・・現実は彼岸の信頼で成り立っている・・・。




僕には宗教をする友達が幾人かいて、彼らはいつも向こう岸を思い描いています。
そうした話しを聞かされるたびに、僕は「現実から遊離している」と思っていたわけですが、よく考えれば僕たちの日常自体、ある程度の彼岸性に覆われているわけです。
そして、この彼岸性を信頼しなければ、現実が現実として成り立たなくなってしまいます。


まぁ、あまりにも現実離れした彼岸に自分を投げ入れるのは健康的とはいえないかもしれませんが、ある程度の彼岸を思い描けなければ現実を生き生きと生きることもできないわけです。

現実っつーのは意外と混濁しているもんなんだなぁと思いました。