小さくて細くて比較的長く強いもの。

~ “小さくて細くて比較的長いもの。”の続き ~



さまざまな理由とさまざまな経過を経て、僕は全可的な現実の中から、“小さくて細くて比較的長く強いもの。”を見つけ出すことができました。

“小さくて細くて比較的長く強いもの。”は確かに小さくあり、細くもあり、比較的長く、そして強いわけですが、それは、そのような条件の下に縛り付ける以前は、単なるフォークの先の部分でしかなかったわけです。
つまり、上空俯瞰的な特権的な立場からは、“麺状の食べ物を食べるための道具。”という役割を与えられていたわけです。

しかし、僕が僕自身の中に持つ、本質規定の超出は、フォークの先の部分の特権的な意味を解体し、括弧に入れて、遠く履歴の奥深くにしまい込みました。
そして、意味を剥がされた、単なる“基体X”には、次の意味付与を与えるべき余地があり、僕はそこに少し限定的な意味を付与しました。

僕の超出により限定的に縛られた意味とは、“小さくて細くて比較的長く強いもの。”という意味です。

この付与が、フォークの先の部分を特権的な立場から引き摺り下ろし、僕の本質規定の中に取り入れることを可能にしたのです。

そして、その付与の中から彼のものを見つけ出すことができたということは、その時点から、全可的な現実の中に、次の分岐が現れたということのなのです。

次の分岐とは、「フォークの先の部分を“小さくて細くて比較的長く強いもの。”として使用できる。」という分岐です。

以上の理由から、僕の身の回りにある全可的世界の中に、「フォークの先の部分を“小さくて細くて比較的長く強いもの。”として使用できる。」という分岐がたち現れ、僕の諸可能性はその分岐の中に組み込まれていくことになりました。


人類は不便です。
なぜ不便かというと、人類は凝視しながら覆い隠すことを繰り返し、現実を多重化させるからです。
それは、幸福とか不幸とか、善意とか悪意とか、そうした価値観以前の問題です。
僕たちはすでにこの世に投げ込まれているという事実とまったく同じように、僕たちは現実を多重化させて利用するという自然的な傾向性を持っているのです。



この自然的な傾向性の理解をほどよく補強するために、僕は婦人の話をしなければなりません。
“記号婦人”の話です。

先日、駅の構内を歩いていました。
時として午後です。
夕方のラッシュにはまだ時間があり、構内も閑散としています。
僕は、果たすべき目的に向けて、電車に乗ろうと切符を買いました。
そして、改札を通り、ホームに下りようと、階段を目指します。
僕の目の前には婦人がいます。
婦人もホームに下りようと階段を目指しています。
そして、婦人は階段を折り始めました。
しかし、どうしたことかこの婦人は、階段の途中で引き返し、また上に戻ります。
そして、どうしたことかこの婦人は、また階段を下り始めました。
僕は、“はて、おかしなこともあるものだ。なぜこの婦人は階段をおり、引き返し、また降りたのだろうか?この、階段を下りるという動作の間に、何か婦人の中で心変わりがあったのだろうか?ということは、この婦人はこの短時間の間に、二回も心変わりをしていることになる。まぁ、世の中はたくさんの可能性に満ち溢れているものだし、たくさんの分岐の中に組み込まれながらもがき、あがき、先に進んでいくものだ。こうした心変わりを短時間のうちに二回もするという出来事があっても、特別おかしくは無いだろう。それよりも、この婦人が無事に目的地に着き、無事にも生き延びることができるのなら、それはそれで良いのだろう。”と思いました。

しかし、凝視してみると、そうではなかったのです。
この婦人は、繰り返される心変わりの中、階段を上り下りしたのではありません。
この謎を解くための鍵は、婦人の通った道筋にあります。
婦人の歩いた道筋の履歴が、婦人の上り下りの意味を物語っています。

婦人が最初に下りた階段は、上に上がる人類用に確保された階段でした。
なぜ、そうした人類用に確保された階段と理解できたのかというと、その階段の頭上には、“上り”という文字が書かれた看板が吊るされていたからです。

婦人が引き返し、次に下り始めた階段は、下る人類用に確保された階段でした。
なぜ、そうした人類用に確保された階段と理解できたのかというと、その階段の頭上には、“下り”という文字が書かれた看板が吊るされていたからです。

つまりこの婦人は、自分の目的の為にホームを目指し、階段を下りようとしたのだけれども、階段を下りている途中で、自分は下に下るための階段ではなく、上に上るための階段を使用してしまっていたという間違いに気づき、間違えに気づいたので引き返し、正しい下に下るための階段を利用し、ホームに下りていったのでした。

ここで、忘れてはいけない現実があります。
その忘れてはいけない現実とは、“時として午後”であるということです。
“時として午後”であるので、階段に人類はほとんどいません。
階段に人類がほとんどいないということは、上に上がる人類用に確保された階段を利用する人類もまた、ほとんどいなかったということです。
つまり、このとき、この全可的な現実の中では、“上り”という文字が書かれた看板に付与されている意味が、効力を失っているのです。
“上り”という意味には意味が無いのです。
これがその時の生の現実です。

しかし、婦人の生きている現実は、少し違うようです。
婦人の現実の中では、生の現実ではなく、記号に規定された現実です。
この婦人は多重化され定立化された意味に規定されている。
生の現実が記号により犯されているので、階段にほとんど人類がいないにもかかわらず、引き返し、記号の中で“真”と肯定された(つまり定立された)現実の中に身を投じていったわけです。

生の現実に意味を付与して多重化し、その多重化された現実の中を生きるというのは、人類の持つ自然的な傾向性です。
しかしそれが不便でもあるのは、僕たちは気をつけて現実を凝視しないと、この記号婦人のように、多重化された現実の中に押しとどめさせられてしまうからです。

このとき、もし、記号婦人が記号婦人でなく、生の現実を凝視することができる婦人であるのなら、まず、その場で起こっている“階段にはほとんど人類がいない”という直接的な現実を了解し、その了解の上で“上り”看板に付与されている意味を解体させ、その看板を単なる“基体X”に戻して、そうえで新たに、看板に、“上りという文字が書かれているが、現実には人類がほとんどいないので、下っても誰にも迷惑がかからないので、下に下る。”という意味を付与し、階段を下るでしょう。


僕たちにとって一番信用できいる世界像とは、客観的現実です。
自然科学的に思い描かれた世界のイメージです。
現実を分断し、距離を置き、考えるという、悟性(理性)の機能が薄くなると、簡単にイメージに現実が塗り替えられてしまいます。
ですので、自分から世界に超出し、世界を本質規定していくためには、悟性の機能(多分、カントのニュアンスとは若干異なるかもしれませんが)を世界に投げかけ、意味付与していくことが必要なのだと思います。



さて、そうしたことで、僕は僕が果たすべき僕の目的の為に、フォークの記号を解体することに成功しました。

僕は、今日の昼下がり、記号に犯されずに済んだのです。

そして、フォークの先の部分に“小さくて細くて比較的長く強いもの。”という目的達成のための新たな限定的意味を付与し、僕の本質規定の為に利用することができたのです。

フォークは麺を口に運び食べるものなのかもしれませんが、その記号的現実に犯されると、次の分岐が手元に現れません。
だから、一度フォークは“基体X”に解体される必要があったのです。

フォークのポジティブさはそこに含まれるネガティブさによって合一され消滅し、あらたな意味を付与され止揚しました。

うれしい。


※以前書いた、「暴走人:http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/21433499.html」の記事は、今回の記号婦人と意味的に連関しています。