既知限界的相と世界内的層の混濁的連関体。

コミュニケーションは難しいと思う出来事がいくつかあり、そのたびに孤独感にさいなまれる。
他者との架橋なんて、彼岸を夢見ている人たちの戯言と代わりがないんじゃないかと思いたくなる。


そうしたときは、相もしくは層が違っているんじゃないでしょうか?


例えば、価値観を無反省に信仰するものがいる。
例えば、価値観と距離をとろうとするものがいる。
例えば、価値観を味わおうとするものがいる。


ビーカーの中のゾウリムシはその外には出れず、ビーカーの中という既知限界の中で生きている。
彼は彼の既知限界的な相の中で生きている。

人にも人の既知限界的な相があって、ゾウリムシの相を経験することができない。

そして、原理的に誰も世界の外側(客観)に立てない以上、その人はその人の世界の内でしか生きることができない。

人の既知限界的相の中には、それぞれの世界内の層がある。

“価値観を無反省に信仰する”層
“価値観と距離をとろうとする”層
“価値観を味わおうとする”層


例えば、どれかの層が本当でどれかの層が嘘、もしくは、どれかの層が進歩的でどれかの層が後進的、とか捉えてしまうと、その瞬間その考えは持論もしくは理論の様相を得ることになり、公共的で直接的な現実を捉えているとは言いがたい。


論理以上の彼岸に仕立て上げないで、そっくりそのまま現実を言い当てることが必要です。
つまり、人には人の既知限界的相があり、その相にはそれぞれの世界内に展開される層がある、ということ以上のことは、言いたくてもいえない。言おうとすると、持論か理論か信念か主義か主張か思想になってしまう。どんどん哲学から離れていって、形而上の観念の世界に落ち込んでしまう。


職場で議論になったときに、“客観化論争”という型にはまることがあります。
その型は、誰の層がより客観的に正しいか?を探るような論争です。
観念の対立になると、虚無っぽくて、僕は押し黙る意外に無くなってしまいます。

そもそも、その人の生きている世界内的層のなかでは、その層こそがその人にとっての生き生きとした現実であるわけなのだから、他の既知限界的相から理論的に自分の層を理解させようとしたって、無理がある。
ビーカーのゾウリムシと、人間は生きている既知限界が違うから、理解はし合えない。。。って思いたくなっちゃいますw


しかし、救いはあります。
人は、層は違えど相は同じであるというところです。
層がズレていて、その人の生きている現実が違っていても、おなじ相を持っているから、その層の成り立ちの仕方は共通のものだ、というところです。


そうはいっても、現実はランダムです。
互いの層は彼岸に見えるかもしれませんが、それもまた現実の一様態です。


層を理解できるのも一様態。
層を理解できないのも一様態。


それもまた良し、としか言いようがないなぁ。