“無い”の様態。

死ぬことについて、ある人は、「現存在しえないという可能性」と表現しました。
現(いま・ここ)に存在することができなくなるという可能性です。
そして、追い越すこともできないし、経験することもできないし、他人と交換することもできないようなもの、と表現しました。
なるほど、物語を利用しないで死ぬことの本質を言い当てようとすると、そんな感じになるのでしょう。。。

本質を取り出すやり方で表現するとそうなるだろうけど、意味の繋がりを追いかけるようなやり方で表現するとどうなるだろうか?

それは、“風流”させるような表現方法です。

楽家錬金術師で芸人の平沢進は、死ぬことを“脱出する”と表現しました。
アルバム「SWITCHED-ON LOTUS」は、死んでしまった9人のタイのオカマにあてて作られたそうです。
彼女(彼?)たちは無事にこの世からの脱出を図ることに成功しました。
死んだ後のことは経験不可能だし交換不可能なことだから、生きている者の思い描く能力にかかっています。
彼女たちが死後どうなるかは、まだ死ぬことを経験していない僕らがどう思い描くかにかかっています。
僕の主観的な解釈かもしれませんが、彼らの友人である平沢は、彼女たちはスイッチを押して脱出し、蓮の花を咲かせたと表現しました。
おそらく、まだ生きている者にこうした表現を連想させるような脱出の仕方は、とても風流な脱出の仕方なのでしょう。
多分、脱出の方法にもいろいろあって、こんなふうに風流に脱出をするのは結構骨が折れることなのかもしれません。
煙たがられている人が死んだとしても、生きている者は決して“蓮の花が咲いた”とは思わないだろうし、そうした場合は“脱出”ではなく、むしろ“この世から排出された”とかのニュアンスで表現するかもしれません。

あ。
生きている者によって死に意味を与えられるってことは、死ぬことさえも、他者の視線に規定されているってことなのだろうか?
・・・僕たちは、死ぬまでも、死んでからも、視線の奴隷ということなのだろうか?。。。


さ。

て。


最近読んだ漫画に「ぼくらの」ってのがあります。
アニメ化もされていて結構人気のあるロボットものの物語です。
15人の少年少女がロボットに乗って敵を倒すって話なんですが、深刻なのは、ロボットに乗るとその操縦者は死んじゃうってところです。
正直、僕はハマりませんでした。
漫画も1巻しか読んでないし、アニメも1話目の途中までしか見ませんでした。
なんていうか、あんまり先が気にならなかったっていうか・・・面白いとは思うんですが、あんまり合わなかったんです。

でも、オープニングテーマは最高です^^

石川智晶っていう女性が歌う「アンインストール」っていう曲です。

石川智晶さんって、この曲を聞くまで知らなかったんですが、きっと声楽をきちんと学んでいる方なんでしょう、とても丁寧で神経質的な歌声が、聞いていて心地良くなります。

サビでは“あーいんすとーあーいんすとー”って歌ってる^^

で。

この歌の歌詞なんですが、ふと、“アンインストール”っていうのは“死ぬ”ってことなんじゃないか?って思いました。
アンインストールを死に置き換えて歌詞の内容を追っていくと、とても深刻に感じられます。
死ぬことの新しい表現の仕方として、アンインストールって
のはとても面白いなぁって思いました。
ってことは、この世に生を受けるってことは、インストールされるってことでしょうか?

インストール・アンインストールって言葉は、その行為を行うものが想定されています。
PCにソフトをインストール・アンインストールするときはそれを行う操作者がいるから成立するわけです。
操作者がいないとソフトは入りません。
もちろん、知らない間に知らないソフトが入っていて、びっくりすることもありますが、その場合も知らないソフトをインストールした知らない誰かが必要です。

もし、死ぬことをアンインストールと表現した場合、そこには、アンインストールを行う操作者がいなければならないことになります。

“現存在し得ない可能性”がより抽象性をもった本質に近い表現であるのに対し、“アンインストール”はその原因である操作者を求めるような具体性をもった表現であるといえます。

さて、それでは、この操作者は何者なのでしょうか?