断罪の麺。
贖罪の念に身を染めて恍惚感に浸っている人がいたら、ニーチェに叱ってもらったらいいんじゃないかなぁとか思いながら道を歩いていたんですが、よく考えたら、贖罪の念を持つことも、この世をドライブするためのコーピング(対処技能)みたいなものなんじゃないかなぁとか思うと、そんなに叱らなくてもいいのかなぁとも思いました。。。
今日は、お休みだったんです。。。
そして。
道を歩いていたんです。
昨日、職場の同僚に、「明日はお休みだからベッドから一歩も動きません。一日死んだようにぐったりするんです。僕にはプチ臥褥が必要なんです。」といったら、「じじいじゃないんだから、どっかいったら?」といわれました。
・・・そういえば最近どこにもいってないんです。。。
わずかながらボーナスも出たし、給料も出たことだから、今日はどこかに出かけることにしました。
とりあえず電車に乗り、池袋に向かいます。
池袋には大好きなラーメン屋さんがあります。
それは、「中本」って名前のラーメン屋さんです。
5年くらい前からよく行っている、お気に入りのラーメン屋さんです。
ここのラーメンは、ものすごく辛いんです。
蒙古タンメンってのが看板メニューで、うまいんですけどものすごく辛いんです。
5年前は5年分若かったんで、辛いラーメンもへいちゃらでした。
毎週のごとく食べてました。
もともとそんなに胃腸が強いほうでもないんで、このラーメンを食べると確実にお腹を壊します。
しかし、お腹を壊しても5年前はへいちゃらだったんです。
おいしいものだから、つい去年まではちょこちょこ食べに行っていました。
でも、この半年以上食べていません。
頭の中には、職場の同僚の声が響きます・・・。
“じじいじゃないんだから・・・。”
じじいじゃない。。。
本当に僕はじじいじゃないのだろうか?
僕の胃は、はたして、5年前毎週のように食べていた「中本」の蒙古タンメンの辛さに耐えられるのだろうか?
「中本」は人気のあるラーメン屋なので、いつも行列ができています。
僕がたどり着いたときも列ができていました。
僕は列に並び、食券を買います。
蒙古タンメンです。
そして、蒙古タンメンを食べます。
・・・辛い・・・ん・・・です。
いや・・・おいしいんです・・・が・・・とても辛いんです。
最近はストレスもたまっていて胃腸の調子も悪いから、そんな僕にとってこのラーメンは、若干の罰ゲーム的です。。。
そもそも、なんでストレスがたまるのだろうか?
仕事をする上では役割を与えられ、その役割はこなせたりこなせなかったりするものなのですが、僕はまだまだ駆け出しワーカーだから、こなせないことのほうが多いです。
そのたびに、“申し訳ない。こんな僕で申し訳ない。本当はもっと良い援助の方法や声のかけ方があっただろうに、駆け出しワーカーに当たったばっかりに中途半端な形になってしまって申し訳ない。。。”という思いに駆られます。
こうした、他者を裏切ったかのような思いに駆られると、ストレスがたまって胃腸の調子が悪くなります。
とても辛い蒙古タンメンを食べていると、こうした贖罪の念にとらわれます。
“認知のAさん。ごめんなさい”、“SのBさん。すいません。”、“DのCさん。申し訳ない”。。。
罰ゲーム的な辛さが身を打つ度に、こうした贖罪の思いに駆られます。
・・・蒙古タンメンは免罪符なのかもしれない。。。
自分の罪を償うための辛さなのかもしれない。。。
「中本」からの帰り道、こうしたことを考えていたら、脳内ニーチェが僕を叱りつけてきました。
彼は言います。
“青年的なこといってんじゃねーよ。自分の生を肯定できなくてどうすんだっつーの。良い援助ができなくったって、駆け出しなんだからしょーがねーじゃねーか。永遠回帰だっつーの。”
・・・そうっすよね。。。
蒙古タンメンのおいしさは、たしかに免罪符的な意味合いがあるのかもしれない。
しかしそれは、青年的な都合のよい恍惚感なのかもしれない。
自己陶酔的なナルチシズムなのかもしれない。
しかし、自分に罰を与えれば罪は癒えるかといったら、現実はそんなに甘くないだろう。
むしろ、自分のやったことを肯定できるような、そうした強さみたいなものも時には必要なんじゃないでしょうか?
そう思うと、贖罪のコーピングの他に、自己肯定のコーピングもあるのでしょう。
次に蒙古タンメンを食べるときには、その辛さを肯定できるようなコーピングを身につけたいものです。
そして、僕はそのまま、夢の中野ブロードウェイを目指して電車に乗り込みました。。。
今日は、お休みだったんです。。。
そして。
道を歩いていたんです。
昨日、職場の同僚に、「明日はお休みだからベッドから一歩も動きません。一日死んだようにぐったりするんです。僕にはプチ臥褥が必要なんです。」といったら、「じじいじゃないんだから、どっかいったら?」といわれました。
・・・そういえば最近どこにもいってないんです。。。
わずかながらボーナスも出たし、給料も出たことだから、今日はどこかに出かけることにしました。
とりあえず電車に乗り、池袋に向かいます。
池袋には大好きなラーメン屋さんがあります。
それは、「中本」って名前のラーメン屋さんです。
5年くらい前からよく行っている、お気に入りのラーメン屋さんです。
ここのラーメンは、ものすごく辛いんです。
蒙古タンメンってのが看板メニューで、うまいんですけどものすごく辛いんです。
5年前は5年分若かったんで、辛いラーメンもへいちゃらでした。
毎週のごとく食べてました。
もともとそんなに胃腸が強いほうでもないんで、このラーメンを食べると確実にお腹を壊します。
しかし、お腹を壊しても5年前はへいちゃらだったんです。
おいしいものだから、つい去年まではちょこちょこ食べに行っていました。
でも、この半年以上食べていません。
頭の中には、職場の同僚の声が響きます・・・。
“じじいじゃないんだから・・・。”
じじいじゃない。。。
本当に僕はじじいじゃないのだろうか?
僕の胃は、はたして、5年前毎週のように食べていた「中本」の蒙古タンメンの辛さに耐えられるのだろうか?
「中本」は人気のあるラーメン屋なので、いつも行列ができています。
僕がたどり着いたときも列ができていました。
僕は列に並び、食券を買います。
蒙古タンメンです。
そして、蒙古タンメンを食べます。
・・・辛い・・・ん・・・です。
いや・・・おいしいんです・・・が・・・とても辛いんです。
最近はストレスもたまっていて胃腸の調子も悪いから、そんな僕にとってこのラーメンは、若干の罰ゲーム的です。。。
そもそも、なんでストレスがたまるのだろうか?
仕事をする上では役割を与えられ、その役割はこなせたりこなせなかったりするものなのですが、僕はまだまだ駆け出しワーカーだから、こなせないことのほうが多いです。
そのたびに、“申し訳ない。こんな僕で申し訳ない。本当はもっと良い援助の方法や声のかけ方があっただろうに、駆け出しワーカーに当たったばっかりに中途半端な形になってしまって申し訳ない。。。”という思いに駆られます。
こうした、他者を裏切ったかのような思いに駆られると、ストレスがたまって胃腸の調子が悪くなります。
とても辛い蒙古タンメンを食べていると、こうした贖罪の念にとらわれます。
“認知のAさん。ごめんなさい”、“SのBさん。すいません。”、“DのCさん。申し訳ない”。。。
罰ゲーム的な辛さが身を打つ度に、こうした贖罪の思いに駆られます。
・・・蒙古タンメンは免罪符なのかもしれない。。。
自分の罪を償うための辛さなのかもしれない。。。
「中本」からの帰り道、こうしたことを考えていたら、脳内ニーチェが僕を叱りつけてきました。
彼は言います。
“青年的なこといってんじゃねーよ。自分の生を肯定できなくてどうすんだっつーの。良い援助ができなくったって、駆け出しなんだからしょーがねーじゃねーか。永遠回帰だっつーの。”
・・・そうっすよね。。。
蒙古タンメンのおいしさは、たしかに免罪符的な意味合いがあるのかもしれない。
しかしそれは、青年的な都合のよい恍惚感なのかもしれない。
自己陶酔的なナルチシズムなのかもしれない。
しかし、自分に罰を与えれば罪は癒えるかといったら、現実はそんなに甘くないだろう。
むしろ、自分のやったことを肯定できるような、そうした強さみたいなものも時には必要なんじゃないでしょうか?
そう思うと、贖罪のコーピングの他に、自己肯定のコーピングもあるのでしょう。
次に蒙古タンメンを食べるときには、その辛さを肯定できるようなコーピングを身につけたいものです。
そして、僕はそのまま、夢の中野ブロードウェイを目指して電車に乗り込みました。。。