作法。

観念は実体化します。

例えば、僕たちは信号機のルールを知っているし、僕たちはそのルールを、あたかも実体があるかのごとく取り扱っています。

観念が実体化してしまう例はルールの世界だけにとどまらず、倫理観や道徳観といった価値観にも及びます。

僕たちは、僕たちの判断を規定している背景的な基盤を持っています。
それは、例えば文化とか呼ばれるものです。

弱者を助けなければならない。
人は平等でなければならない。
不倫をしてはならない。
常識性を守らなければならない。
社会の中で生きていかなければならない。
生きなければならない。
最愛の人を守らなければならない。
平和でなければならない。

こうした価値観にケチをつける気はないし、むしろこうした価値観を遵守しながら生きた方が生きやすいとは思うんですが、驚異を感じるのは、こうした価値観が実体化してしまい、価値観を利用している者が、その実体化にまったく気付かない時です。
それは、ぜんぜん悪いことじゃないけど、気付かないのが驚異なんです。

例えば、とても遠くまで見通せる大きな道路があるとします。
そして、そこには信号機があります。
もし、この道路で、どっからどう見ても車がこないにも関わらず、“赤信号だから。”といって、渡るのを拒んでいたら、この人は現実を生きていると言えるでしょうか?
むしろ、実体化した観念に支配されています。
そもそも、信号機のルールが成立するためには、“信号の色によって、進むか止まるかを決めないと、車にひかれて死んじゃう可能性がある。”という直接的な現実が必要です。
この現実がある限りにおいて、信号機のルールは生き生きとした現実感を持っています。
しかし、例であげた道路のように、明らかに車がこないという現実があるにも関わらずに赤だからといって止まってしまったら、その人は現実感をもった判断をしているとは言いがたいです。

・・・だからといって、ルールを破りましょうといっているわけではないです。
そうではなくて、観念が実体化してしまう場面があることを知ることが必要だということです。


で。

最近。。

とても驚異的な人に出会いました。。。

その人は、善意の保護者です。
大きな愛情を持って、他人を支配しようとする人です。
その人の中では、価値観が実体化しています。
実体化した観念に自身が乗っ取られてしまって、自分で考えて判断することをしません。

その人は、無償の愛と善意とサクリファイスな精神を持っているので、困っている人を助けます。
それはそれで美徳だし、ぜんぜん正しいことなんだけれど、時として、全く現実感がない、機械のような行動に見えてしまうことがあります。
例えば、レジの前で店員さんに注文をしているお客さんがいるとします。
その人はもごもごと口ごもってしまい、自分の思いをうまく伝えられません。
善意の保護者は、その場面に立ち会ったときに、手助けをします。
その人のかわりに店員さんと話して、その人の注文を伝えてしまいます。
ここで注意しなければならないのは、善意の保護者は、このとき、困っている人から可能性を奪い取ってしまっているということです。
もし、確率の番人がいたら、この善意の保護者は、きっと“可能性窃盗罪”という罪状で逮捕されていたでしょう。
善意の保護者は、この困っている人が、もごもごと口ごもりながらも自分の思いを伝えるという大切なスキルを獲得する可能性を、かすめ取ってしまっているのです。

で。

たぶん。。

僕自身も日常の奴隷なんで、こうした困った人に出会ったら、極力手助けをすると思います。
しかし、その行為がその人の可能性を奪ってしまったことに気付いたのなら、悔やまないとなりません。
正直に“確率を奪っちゃってゴメンね。”って謝らなきゃなんないと思います。

でも、僕が善意の保護者に驚異を感じるのは、彼らは、倫理的に良い行為だからといって、反省することをしないのです。
助けることがその人の成長の可能性を奪ってしまうという現実の可能性があるにも関わらず、そうした現実があることを直視しようとせず、あくまで、現実から遊離した観念の世界の中で、まったく倫理的・道徳的に正しい行いしかしないのです。

・・・車なんていないのに、“赤信号だから”といって止まっている人と似ている・・・。

さて、そういう人に出会ったとき、どうすればいいのかが問題になります。
僕は、相手が実体化した観念に支配されていると気付いたときは、とりあえず逃げますw
卑怯なんですが、どこまでも逃げますw
なぜかというと、観念が実体化していることは、その人の世界の内側で起こっていることだから、自分で気付いてもらわないとならないからです。
こっちが論理的に現実を語って攻め込んでも、自分の現実から遊離した世界の中で生活をしている人たちだから、受け入れてくれません。

しかし、そうはいっても現実問題として、善意の保護者たちとお付き合いはしていかなければなりません・・・そういう人に限って職場の同僚だったりするし・・・w

で、最近、実体化した観念を解体させるには、礼儀作法が必要なんだなぁと思いました。
こちらの方で、現実経験から基付けられた、論理の形式的な構えを作るのです。
直接的な現実経験がなければ動作しない、論理の形式を自分の中で持つことが必要です。
いくら相手が現実から遊離した観念を使用してきても、それに伴う現実経験がなければ、対話の形式を作動させてはいけません。
むろん、相手の持つ観念が現実から基付けられているものならば、こちらも快く形式を作動させます。。。できれば、現実経験から掴まれた観念を使用した関係性が、気持ち良いものであるように感じさせればなおベストです。
こうした行動を伴ったやりとりの中で、相手の間違った認知の仕方が修正されていけば良いなぁと思います。

でも、僕は技量的に、まだそこまでのスキルを持ち合わせていないから、手に負えなくなったらしっぽを巻いて逃げちゃいますw

そうしたわけで、形式を利用した礼儀作法は、鍛えないとならないなぁと思いました。