頭の整理:規範と自己について。

今日は相方といろいろ話した。そのやりとりはとても大切で、いくつも気づきがあった。


それは、<作るもの-作られたもの>の違いとして言い当てることができるだろう(この辺の表現は西田哲学の表現と被ってくる)。


 


私たちは<作られたもの>の中で生きざるを得ない。それは、習慣性や歴史性の中で作られた常識の世界で、いわゆる社会のことだ。私たちの所属する文化には、例えば男は男らしくだとか、女は女らしくだとか、どんなふうに成長してどんなふうに最期を迎えるのが幸せなのかだとか、いくつもの基準がある。そして僕たちはそれらを、まるで最初から実在するものとして教え込まれる。それは、常識性とともに、倫理観や道徳観として、私たちの言動を規制する規範となっているだろう。


 


そして、多くの人は成長していく中で、こうした<作られたもの>としての社会に対して疑問を抱く。なぜなら、<作られたもの>としての規範は、私自身が“こうしたい”という思いと反する場合があるからだ。いや、むしろ、<作られたもの>としての規範は、私の欲望を抑えるものとして機能していると言えるだろう。みんながみんな欲望のままに生きていては、争いが絶えなくなってしまうからだ。


 


では、私自身が思う“こうしたい”という思いはどこからくるのだろうか?幼児期の頃の“こうしたい”と、青年期の“こうしたい”は質が違っているだろう。幼児期の頃の“こうしたい”は、私と世界が一体になった中での“こうしたい”だ。お腹が空いたら食べる、眠いから寝る、気に食わないから喧嘩をする・・・。私の欲望と世界は一体になっており、世界は私の欲望を満たすように動くことを期待する・・・これが幼児期の“こうしたい”といえるだろう。これに対して、青年期の“こうしたい”は少し違う。青年期の“こうしたい”は“私はこう感じてこう考える、だからこうしたい”といった、対象化された自己像に対する“こうしたい”だ。青年期に人は、何が本当の自分か疑問に思い、自分探しに力を注ぐ。それは、私は何を感じ、何を考えているのか、その主体である“私”自身を対象化する作業と言えるだろう。そして、自己に対する対象化がある程度完了すると、人は<作られたもの>としての自己を獲得することができ、それに従って生きることができるだろう。こうして人は社会に出て、生活をして、大人になっていくのだと言える。


 


青年期を経てからの生活は、<作られたもの>としての規範と<作られたもの>としての自己との間の相克だと言えるだろう。両者のせめぎ合いのダイナミズムが、人が社会の中を生きていく生々しさとなっていくだろう。<作られたもの>としての規範があまりに強すぎると、人は自分の欲望を叶えることができず、自分の人生を生きている感じがしないだろう。逆に、<作られたもの>としての自己があまりに強すぎると、その人はエゴイストとなり、社会から排除されるだろう。


 


人が<作られたもの>としての対象論理の内側に捉えられているならば、そこには常に、どちらかがどちらかを脅かすという戦争状態が発生してしまう。


 


では、そもそものところに立ち返ろう。<作られたもの>はなぜ作られたのか?<作られたもの>としての規範を作り出したのは人である。そして人は<作られたもの>としての自己を成長の過程で手に入れる。<作られたもの>としての自己は、その人の欲望を実現するところから始まっている。欲望を実現する過程で、人は<作られたもの>としての自己を手に入れ、その上で<作られたもの>としての規範を作り出したわけだ。つまり、<作られたもの>の根っこには、<作るもの>として、見る、聞く、触れるといった直接的な現実があったはずだ。


 


<作られたもの>としての規範や自己は、一方は社会から、一方は自分自身から、“あなたはこうすべき”といった要請を投げつけてくる。問題は、この要請が強すぎて、直接的な現実が隠されてしまうという事態である。おそらく、生きづらさだとか精神病だとか、多くの心の問題の根っこはここにある。<作られたもの>によって<作るもの>としての直接的な現実が隠されてしまうということが問題なのだ。


 


では、<作られたもの>としての規範や自己が現実から遊離しないように、<作るもの>として直接的現実を生きるにはどうすればいいのだろうか?おそらく、そこで肝になるのは“価値”である。その人にとって実現させたい人生価値を大切にするということである。人生価値は様々だろう。仕事、趣味、家庭、様々だろう。人生価値を軸にしながら、習慣性やエゴイズムに陥らないように生きていくことが<作るもの>として生きるということだろう。