抱負のような。。。

やっぱり、生きていると誰だってうつ状態になることはあるだろうし、僕も鬱々とする日々に突入することがあります。

去年1年間を振り返ってみると、なんだか遅刻の回数が大幅に増えてしまったようだ。

今の職場にきて、最初の何年かは遅刻することなんてなくって、むしろ、三十分くらいは早めにきて、いろいろ準備を整えてから仕事に挑んだものです。

でも、この1年間は1~2分の遅刻がどうしても回避できなくて、仕事の能率も低下するし、「こうしたほうがいいんだ」とか、いろいろやるべきことはあるんだけど、なかなか体がついて行かない。
心もついて行かない。

まぁ、年中テンション高くて仕事の能率も落ちずにやり続けてる人なんてちょっといないだろうし、上がり下がりがあってこそ生きている感じがするんだろうけど、昨年1年間は鬱々としていたものです。

で。
こうした鬱々とした感じを、職場のせいにしたり上司のせいにしたり、他責的に考えることもできるし、そうした方が考え方をすることも、一つの対処技能なんだろうけど、自分自身の心のありように目を向けてみると、ちょっと気がつくことがあります。

それは、「理念」に関わることです
「理念」とか、「規範」に関わることです。

僕はこれまで、自分の行動を規定してしまうような理念的なものには慎重に接するようにしていて、理念的なものに接したら、盲目的に信じるんじゃなくって、まずはそれを基づけているような直接的な現実に目を向けて、そこから考えを始めるようにしています。
もし、その理念を基づけている現実がないのなら、その理念に基づいて行動すべきじゃないだろうし、もし、現実が発見されたのなら、その理念は行動の指針になると思います。

それは、倫理観や道徳観にも通じるところがあるように思えます。
保護的な視線がその人の自律を阻害してしまうという場面には嫌というほど直面していますし、そうした場面に接するごとに、「理念→括弧入れ→現実探索」という思考の流れをたどるように気をつけています。

で。
今の鬱々とした僕の現在には、直接的な現実からつかみ取られた「理念」や「規範」が足りないような気がする。

そうしたものが足りないから、僕の現在は散在してしまうというのか、散在してなにをしていいのかわからなくって、意欲低下してしまうというのか、そんな状況になってしまってるんじゃないかって思えるんです。

ですから、僕の性状から、盲目的に理念を信じることはできないのですが、現実経験から基づけられた理念を作り上げることはできるかもしれません。

たぶん、モデルになるような理念像や規範像みたいなものがあれば簡単なんだろうけど、なかなかそういうものは見つからない。
いや・・・あるか・・・どうだろう?・・・やっぱないか・・・あったとしても、僕の性状から、盲目的にモデルとしては認めないだろうけどw

今年の目標は「理念化」にあるのかもしれないな。

でも、“現実から基づける”っていう基本的な態度は忘れないようにしよう。