体験と経験(『ブレードランナー』の感想)1。

f:id:pukut:20190915103334j:plain実存主義者のサルトルは、人間の特徴を“人は自由の刑に処されてる”って表現したようだ。人は、“出来事を了解しつて投企する”っていう実存構造をもっているからこそ、自分の在り方を自分で引き受けるときの責任に苛まれるのだろうね。


そして、リドリー・スコットという映画監督は、自分の内面を見つめるのが得意な人のようだ。内面を見つめて、その仕組みを比喩と隠喩で巧みに表現している。


僕は先日、成田IMAXで、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』を観てきた。この映画はつくづく繊細な映画だ。SF映画の体裁はとっているけど、その中味は実存映画なんだ。人間についての映画なの。一昨年、その続編となる『ブレードランナー2049』が公開されたんだけど、こちらもキチンと実存映画になっていて面白かった。で、『ブレードランナー』が何を表現しているのかというと、“体験”と“経験”についてのようなんだ。


体験ってのは、“いま・ここ”で起こっている出来事のことだね。そして、“いま・ここ”は決して静的な定点ではなくって、なんだか混沌としているんだ。いや、混沌と言うより、“意味に彩られている”と表現したほうが良いだろうな。では、その“意味”とはなんだろうかというと、それが経験だ。その人の身に、既に起こった出来事ってことだね。そして、経験はいつでも超越に触発されている。超越という言葉で何を表現したいかって言うと、それは、自分の意識の外側にある存在全てのことだ。今、僕の目の前にはスマホがあって、その向こうにはテレビがある。そうした自分の意識を乗り越え出て存在しているもののことを、ここでは取りあえず“超越”と呼んでみよう。


超越は、決してそれ単体では存在し得ない。僕は今、BlackShark2っていうスマホを触っていて、このスマホは水色で画面はツルツルしていて水冷式でスナップドラゴン855というCPUを積んでいてメモリは6Gで5万円台という高コスパなんだけど、自分自身の中にそのような理解が経験として沈殿されているからこそ、BlackShark2をそのようなスマホだと理解できるわけだ。


というわけで、僕の“いま・ここ”は超越に触発された経験に寄って彩られているんだ。そして、このように彩られているからこそ、“次になにをしようかな?”って考えを巡らせて、今の自分を未来の自分に投げ入れることができるわけだね。つまり、投企できるってこと。体験の中味について考えてみると、大体こんな構造が取り出せます。そして、その人の目が覚めているのであれば、自分の体験に気づくことが出来るわけだから、“自己意識がある”と表現できるわけだね。




※ここからは映画のネタバレあり。




さて、『ブレードランナー』についてだ。この映画の舞台は2019年11月なんだけど、その2019年は有り得ない未来の姿をしている。様々な民族、文化が入り乱れてまとまりがない。文化のごった煮状態がブレードランナーの世界なんだ。そこでは、お互いにさぐり合うような、値踏みをするような視線が交差していて、なんだか不快。混沌としている分、自他の繋がりは遮断されているようだ。映画の前半は、この視線の絡み合いが気持ち悪く感じられる。


そして、この世界の異端はレプリカントと呼ばれるアンドロイドだ。レプリカントはほぼ人間と同じみたい。人間と同じように世界が体験されているようだ。自己意識があって、実存構造をとっている。その証拠は、偽りの記憶を植え付けてあるっていうところにある。単なる推論機械であるのなら自己意識がないわけだから、“自分がなにものか?”なんていう問題は発生しないだろう。でも、レプリカントは人間と同じように実存構造を持っているからこそ(自己意識があるからこそ)、自己同一性を保つために記憶が必要となってくるみたいなんだ。


劇中に登場するのは、レプリカントの中でもネクサス6という最新型のタイプのもので、人間よりも頑丈で強い。だから、辺境の惑星で過酷な労働に着かされている。そして、彼ら寿命は4年ととても短い。


彼らの悲劇は、自己同一性の根拠となる経験が偽りのものであり、強制的に過酷な労働という責め苦を体験させられ、短命であるが故に死に対して自覚的にならざるを得ないというところだ。もし、自己意識がないのであればどこにも問題はないんだけど、自己意識がある故に、人間と同じように世界が現象しているが故に、彼らは自己同一性の危機に陥ることになってしまうんだ。


劇中では、4体のレプリカントが辺境の惑星から地球に逃げてくる。そして、自分の寿命を延ばしてもらおうと、自分の作り手たちに会いに行く。ここで面白いのは、知覚の作り手→身体(遺伝子工学の人)の作り手→心の作り手という順番で会いに行っているところかな。超越と直に触れている知覚、身体から、内側である心に向かっているところが象徴的でおもしろいよね。でね、結局彼らは寿命を延ばしてもらうことができず、次々と作り手を殺していくことになるんだ。


4体のレプリカントのうち、強く自己同一性の危機を感じているのは、ロイ・バッティっていうリーダーみたい。他のレプリカントは単に死にたくないだけみたいだけど、ロイは寿命を延ばして、自分自身の経験を手に入れたいようだ。彼は、強制的な責め苦を呪う言葉を吐き、作り手の目を潰す。直接的な体験の根拠である目を潰す。


さて、この映画の主役はデッカードという男性だ。デッカードブレードランナーという対レプリカント組織の一員だ。問題を起こしたレプリカントを殺すことが仕事なのね。ということは、レプリカントたちにとってのデッカードは、脅威でしかないだろうな。ただでさえ短い寿命を強制的に奪うにくる人間なわけだから、彼らにとっては死神みたいなもんだろう。


そして、映画のクライマックスは、デッカードとロイのバトルだ。バトルといっても、デッカードはただあわあわと逃げ回るだけなんだけどね。寿命を延ばせず死が確定してしまったロイは、自分の身体能力を味わうように使ってデッカードを追い詰めるの。まるで、ロイ自身が体験している死の自覚を、デッカードに味あわせているようだ。


でね、ロイはバトル中に寿命を迎えて死んでしまうんだけど、この死ぬ間際の語りがたまらないんだ。自分が強制的に受けてきた責め苦を、自分の言葉で、自分の物語としてデッカードに語るの。たまらないのは、その語り口が恨み節ではなくって、なんて言うか、自分の思い出として語っているところなんだ。鳩を抱えながら、自分の生として、自分が体験した短い人生を語るんだよ。


結局のところ、人間は体験からは逃げられない。自己意識が生じている以上、これは仕方がないことだ。その意味で、人間の原的な事実というのは、“人は体験の刑に処されている”って表現できるかも知れないね。そして、その体験は必ずしも快適なものではないだろうな。ロイのように、責め苦のような体験を強制させられることもあるだろう。切ないのは、そんな体験であっても、自分のものであるというところだよなぁ。最後、ロイは諦念を感じさせる表情を見せていたけど、彼は自分の人生を引き受けることができたのだろうか?


自分の体験は大切に愛でてあげたいものだし、できることなら愛でてあげやすい体験を積み重ねたいものだね。f:id:pukut:20190915103131j:plain

石野卓球好き。

卓球のツイート眺めていると、彼の中にはちゃんと批判の根拠があるみたい。たぶん次の2軸を根拠にしながら批判してる。

1・“部分”と“全体”を区別する
2・“私”と“あなた”を区別する

部分と全体の区別ってのは、例えばさ、日本人の俳優さんが海外で活躍してなにかの賞をもらったとするじゃない。その評価は彼個人の才能や努力に対するものだ。「人間であるところの東洋人であるところの日本人であるところの○○地方に住むとこの俳優であるところの○○さん」が評価されたわけだ。それなのに「日本人すげー」ってなったら部分(個人)を全体(日本人)と取り違えちゃってるってことになるよね。

次の“私”と“あなた”だけど、“あなた”の中には他者だけでなくって、社会だとか文化だとか習慣だとか、そういったものも入るだろうな。つまり、私以外の全部って感じ。卓球がツッコミを入れるのは、「私はこう感じたからあなたもこう感じなさい」「習慣の中だとこうなってるからあなたもこうしなさい」ってことを言い出す人に対してだ。それは、“私”と“あなた”がごちゃ混ぜになっちゃって、区別できていない人ってこと。だから、「私は習慣についてこう思うけど、あなたはどう思う?」っていう「私にとっては~」の視点を大切にする人にはそんなに批判的じゃないみたい。

彼は何でこういう思考が身に付いたんだろうね?すごいことだよ。

でね、卓球を批判する坂上忍が、僕には“私と“あなた”の区別つかない人に見えて滑稽で、「こういう老害はいなくなってほしい」とか思ったんだけど、卓球は彼にも公平で、「彼は彼の仕事をしただけ」と言うんだ。つまり、ここでも「坂上忍に取っての仕事」っていう「私にとっては~」の視点を大切にしてるみたいだね。

いやはや、卓球はすごいよ。
見習いたい。

そしてまりんの屈託のない笑顔!

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イメージの交叉。

ああそうか、“身体”っつーのはキーだ。
“私”ってのもキーだ。
“私にとっての身体”っつーのもキーだ。

赤ちゃんはさ、“私”がほとんどないわけじゃん。“身体”が世界なわけだ。伝染泣きみたいなことが起こるわけだし。

でね、ちょっと大きくなると、人の中には“私”が出てくるわけだ。身体は“私にとっての身体”になり、世界は“私にとっての世界”になるわけだよね。

でもさ、例えばダンスを習い始めたちびっ子って、なんだかぎこちがなかったりするよね。自分の思い通りに身体を操れていないっていうか。でも、だんだん慣れてくると、“私”と“身体”が癒合しだして、気持ちいい表現ができるようになってくるわけだ。

僕はスポーツが苦手だからうまく表現できないけど、プロのアスリートとかの癒合感ってすごいよね。“私”と“身体”が一体になって競技をこなしている姿はすごい。

っていうふうに考えると、「身体と世界が癒合しているような状態に亀裂が入り、“私”という意識ができてくるにつれて、身体や世界は“私”にとっての対象として現れてくる。そして、私たちは“私”にとっての身体や世界を極端に対象化して客観世界を作り上げることもできるし、癒合感を高めることもできる」って感じで表現できそうだ。

でね、僕がなにを言いたいかっていうと、“おっちゃんの切なさ”なんだ。

いやあのね、今日、コンビニでレジを打ってくれたおっちゃんが、ちょっと切なかったんだ。

たぶん、60歳前後じゃないかなぁ。
オーナーかもしれないし、コンビニでバイトをせざるを得ないような事情のある人なのかもしれない。まぁ、背景はなんでもいいんだけど、このおっちゃんはハキハキした声で喋るのね。いや、実際は喋れてないんだけど、おっちゃんはハキハキ喋ろうとするんだ。
そしておっちゃんは、テキパキと商品のバーコードを読み取って袋に詰めて、会計処理をしようとするの。できないんだけどw

なんかさ、中年って、変な走り方をしたりするじゃない。なんていうか、「早く走るぞ!」って思いは伝わってくるんだけど、それに身体がついていってなくて、変なフォームになっちゃうっていうのかな。今日レジをしてくれたおっちゃんには、このズレた感じがすごいしたんだ。

“私”と“身体”の癒合感が薄くなってズレている感じ。

こっからは妄想なんだけど、身体を軸にして成長の過程を考えると、このおっちゃんも最初からこうじゃなかったと思うんだよ。少なくとも赤ちゃんの時は身体と世界は癒合していたわけだし。そして、こんなふうにハキハキ喋ろうとするってことは、きっと働き盛りの時はハキハキ喋れて、テキパキ動けていたんじゃないのかなぁ。

そう思いを巡らせると、おっちゃんの“私”と“身体”が解離してしまっている感じってのが切なくて切なくて・・・ひょっとしたら、歳を取るってのは、“私”と“身体”の癒合感が薄くなっていくってことなのかも知れないなぁ。“身体”を“私にとっての身体”として世界に炸裂させようとしても、うまく出来なくなってしまうということなのかも知れない。

ここで凄いことに気づいた!僕は42歳だ!おっちゃんじゃないか!僕の身体は僕にとっての身体でいてくれているのだろうか?身体は僕から離れてしまってないだろうか?・・・こんなことを考えながら、僕は両国亭へ向かいました・・・「両国お笑い寄席」です・・・。


「両国お笑い寄席」は初めて行ったけど、いい雰囲気で楽しかった!

八ゑ馬「つる」
志ん吉「鼓ヶ滝」
昇々「マキシマム・ド・飲兵衛」
はな平「井戸の茶碗

「マキシマム・ド・飲兵衛」はいろんな噺家さんがやってるんだね。昇々さんの老夫婦のキャラ設定が化け物染みてて面白かった!


でね、僕は落語を聴くとき、どうやら“私にとっての”という見方にとらわれ過ぎていたのかも知れない。
つまり、噺家さんの噺を聴いて、所作を見て、僕の内的世界にどんなイメージが湧き出るかってことを楽しみのポイントにし過ぎていたようだ。

いや、もちろんそれは肝だと思うよ。落語は共感の芸だともいうし、聴き手の中のイメージが動いてくれないわけには楽しみようがないわけだし。

でもさ、高座での落語家さんは、“落語家さんにとっての身体”を使って噺をしているわけだ。それは、落語家さん(この文脈でいうとこの“私”)の中にイメージの世界があって、それが“落語家さんにとっての身体”を通して表現されているってこと。まぁ、中には内的世界が感じられず、空虚なアクターとしか思えないような噺家さんもいるけど、それはそれとして・・・。

そんなわけで、最近「落語はイメージの交叉」ってツイートをしたのは、なんとなくこんなことを考えるようになってたからなんだ。

僕は落語を楽しむ時の力点を、自分のイメージの世界を楽しむところから、噺家さんのイメージの世界を感じ取るほうにシフトしてみようかな。そのためのキーは“身体”。“噺家さんにとっての身体”でもあるし“私にとっての身体”でもあるし、その交叉する感じを楽しめたらいいなぁ。

『翔んで埼玉』の感想。

『翔んで埼玉』を観てきた。
良い映画だった。
そして、人の理性というものは、如何に脆く、過ちを犯しやすいものなのだろうか。

僕たちは道端に咲いているお花を見つめて、“これは良いお花だ”、“これは悪いお花だ”と、価値評価を与えることができる。これ自体はとても自然なことだ。しかし、そこから展開される価値の体系は、観て、聴いて、触れることができる、直接経験の領野を覆い隠してしまうこともあるのだ。

埼玉県人も人だ。
彼ら自身、道端に咲いているお花を見つめて価値評価を与えることができるのだ。
彼らは人間なのだ。
だがしかし、現実経験から遊離した価値体系は、時としてこの事実を覆い隠す。埼玉県人は物事に価値評価を与えてはならないと、作られた価値により事実を規定するのこともある。

思い返せば、人類史とは理性との戦いの歴史であった。いや、正確には理性の作り出した価値体系との戦いの歴史であった。理性の作り出した価値の体系は、様々な差別や虐殺を生んできたのだ。そしてそこには、いつも、価値を壊そうとする革命家が存在していた。

麗は革命家だ。彼の行動がなければ埼玉県人たちは救われなかっただろう。だがしかし、彼もまた、自らの内側にある価値体系の虜となっている可能性はないだろうか?夜空に人の平等性を思い描く彼のことだから、そんな罠にはまる危険性はないだろうけど、少なくとも彼の育った境遇が、彼を革命家に仕立て上げてはいる。つまり、彼は生まれながらに革命家にならざるを得なかったのだ。

そこで救いとなるのは百美の存在だ。彼は革命家ではない。革命家になる必要がない境遇に生まれ育ったのだ。だがしかし、彼は彼の寄って立っている価値体系を振り切ることができた。自分自身を規定する習慣性を破壊して、埼玉県人に救いの手を伸ばすことができたのだ。それは父からの自立でもあるし、公共意識の芽生えでもあり、何より、麗に向けての愛情でもあった。そう、この映画は百美の成長の物語なのだ。

人生は恋と革命だ。人に惹かれ、価値体系を壊し、別の何かを求めることが生きるということなのだ。埼玉県人だってお花を愛でることができる。お花を憎むことだってできる。僕たち人間は脆く、間違いを犯しやすいものだ。だがしかし、二度と『翔んで埼玉』の悲劇を繰り返してはならない。

『ファースト・マン』の感想。

昨日は『ファースト・マン』を観てきた!

二度目の鑑賞だ!

今回はとっても楽しめた!

正直、一昨日の鑑賞は心がピクリともしなかったんだ。実写版『デビルマン』でも観といたほうがなんぼかましで、こんな映画で「感動した!」とか言ってるヤツは感性の死んでるクソ野郎じゃないか?って気分だった。

っていうのも、全ての演出が鼻について鼻について仕方がなかったからなんだ。

で、いったい僕はなんでこんなに反応しているんだろうかと今日は1日考えてたんだけど、それはどうやら“視点”についてのようだった。

そう、この映画って、いろんな視点が出てくるのね。

まずは映画らしい神の視点。

そして、定点カメラの視点。

さらに、報道カメラの視点。

特徴的なのは密着ドキュメンタリーカメラの視点。

そしてこの映画の視点はここで終わらなくて、密着ドキュメンタリーよりもさらに密な、“覗き見視点”が出てくるんだ。登場人物の生活や内面を覗き込むような視点だね。

でね、この覗き見視点なんだけど、密着ドキュメンタリーの延長として違和感なく観れるときもあるんだけど、ニール夫妻のやり取りを描くときにも使われていて、ここでの覗き見視点がしんどいの。

なんかね、ここでこの視点が出てくると、とてもプライベートな夫婦関係を覗き込んでいるような感じになって“不誠実な行為に加担してるんじゃないか?”という罪悪感みたいなものが沸いてくるんだ。

昨日の鑑賞で僕が引っかかって素直に喜べなかったのは、この罪悪感が沸いてきたからみたい。

でもさ、この罪悪感って、こうした映画には必要なものだと思うんだよ。だってさ、確かにニールは英雄だろうけど、ひとりの人間であるわけだよ。そして僕らは、そのひとりの人間に起こった出来事に迫ろうとするわけだ。それはその人の人生に潜り込んでいくわけだから、そんなに品のある行為じゃないだろうな。

で、もちろんこうした“個人の内面に踏み込む失礼さ”みたいなものを全く無視して、単なる美談として、ショウとして見せつけることもできただろうけど、この映画はそうじゃなかった。

覗き見視点を巧みに使って、観客に“不誠実な行為に加担しているんじゃないか?”という罪悪感を抱かせてるんだ。

思えばこの不誠実な罪悪感っていうのは、この映画の、っていうかこの出来事のひとつのテーマになっているのかもしれないな。

ニール夫妻の間に起こったこと、ミッションで犠牲者を出してしまったこと、政治的な理念にまつわること、人が宇宙に行くことで犠牲になったたくさんの人たちのこと・・・。 そうした“不誠実な行為に加担しているんじゃないか?”という罪悪感みたいなのを、直接的ではないにしろ、視点を通じて感覚的に表現しているのは凄いことだよ。

ああ。できればIMAXで観たかったな。

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緊急検証! THE MOVIE

『緊急検証! THE MOVIE ネッシーVSノストラダムスVSユリ・ゲラー』はおもしろい映画だな。

「オカルトの真偽ではなくエンターテイメントとしてどうか?」と問うていくはすごいことだと思う。

この“エンターテイメント”という言葉は“意味”に置き換えてもいいのかも知れない。「真偽ではなく、どんな意味を持つのか?」と受け止めると、後半のドキュメンタリー展開はすごい。プレゼンター三人にとってのオカルトの意味がしみじみと伝わってくる。

現代は正義のチンピラたちがはびこっている。“これこそが真実”という価値観を作り上げて、それに現実を規定しようとする人たちがそこかしこにいる(・・・まぁ、それは一部の人たちが目立っているだけかも知れないけど)。

真実を作り上げると、どうしても対立することは間逃れないんだよね。もちろん対立することも時には必要だろうけど、スマートに生き抜く為には、どうにかして対立構図に陥らないように配慮する必要が出てくる。

でね。反省は端折るけど、そのためには出来事の真偽ではなく意味を見つける態度がどうしたって必要になってくるんだ。「真偽ではなく、どんな意味を持つのか?」ということだね。

この『緊急検証!THE MOVIE』のおもしろいところは、こうしたうまく生き抜くための方法がテーマとして浮き出てくるところだ。しかも痛快なのは、この映画は思想家が作った啓発映画ではなくて、オカルトという、全くのサブカル領域の映画であるというところ。

こういうところか僕らのら価値観が変わっていったら、これほど楽しいことはないな。ワクワクする。

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リメイク版の『サスペリア』はおもしろかった!

リメイク版の『サスペリア』おもしろかった!
っていうかびっくりした!
まさか、こんなにも身体的な舞踊映画だとは思わなかった!!

いやあのね、僕は『サスペリア』のことをよく知らなかったんだよ。今日、キネカ大森でオリジナルの『サスペリア』を観たんだけど、実は今回が初見だったんだ。

でね、オリジナルを観た感想は、“色彩と音響の映画”って感じだった。色と音を楽しめたから、クライマックスが謎爆発の連続だったとしても、それも時代的な工夫として受け止めることができた。

で、今日は、“『サスペリア』は色彩と音響の映画だ”という構えを持ったまま、リメイク版を観に行った。リメイク版も事前情報はほぼ無しだ。そしたら、なんとこの映画は思いっきり身体に力点が置かれていたんだ!

僕は舞踊については全然わかんないんだけど、以前、何かの展覧会にコンテンポラリーダンスのコーナーがあって、その時は“言語化する以前の感覚を、身体を使って表現することの直接性”みたいなものにクラッときたものだ。

でね、リメイク版は、この直接性の領域で活躍する表現者たちの、“底の方で繋がっちゃう感”みたいなものが肝になっているようなんだ。そして、その感覚を超常的なものへと暴走させて、ホラーとして描いているようでもあった。

まぁ、ちょっとやり過ぎっぽいところもないではないけど、最後までステキに綺麗で、観ていて気持ちよかったな。

いやはや、今日はおもしろい一日だった。オリジナル『サスペリア』で色彩と音を感じて、リメイク版『サスペリア』で舞踊の身体感を味わうことになったんだもんな。思ってもいなかった。

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