『翔んで埼玉』の感想。

『翔んで埼玉』を観てきた。
良い映画だった。
そして、人の理性というものは、如何に脆く、過ちを犯しやすいものなのだろうか。

僕たちは道端に咲いているお花を見つめて、“これは良いお花だ”、“これは悪いお花だ”と、価値評価を与えることができる。これ自体はとても自然なことだ。しかし、そこから展開される価値の体系は、観て、聴いて、触れることができる、直接経験の領野を覆い隠してしまうこともあるのだ。

埼玉県人も人だ。
彼ら自身、道端に咲いているお花を見つめて価値評価を与えることができるのだ。
彼らは人間なのだ。
だがしかし、現実経験から遊離した価値体系は、時としてこの事実を覆い隠す。埼玉県人は物事に価値評価を与えてはならないと、作られた価値により事実を規定するのこともある。

思い返せば、人類史とは理性との戦いの歴史であった。いや、正確には理性の作り出した価値体系との戦いの歴史であった。理性の作り出した価値の体系は、様々な差別や虐殺を生んできたのだ。そしてそこには、いつも、価値を壊そうとする革命家が存在していた。

麗は革命家だ。彼の行動がなければ埼玉県人たちは救われなかっただろう。だがしかし、彼もまた、自らの内側にある価値体系の虜となっている可能性はないだろうか?夜空に人の平等性を思い描く彼のことだから、そんな罠にはまる危険性はないだろうけど、少なくとも彼の育った境遇が、彼を革命家に仕立て上げてはいる。つまり、彼は生まれながらに革命家にならざるを得なかったのだ。

そこで救いとなるのは百美の存在だ。彼は革命家ではない。革命家になる必要がない境遇に生まれ育ったのだ。だがしかし、彼は彼の寄って立っている価値体系を振り切ることができた。自分自身を規定する習慣性を破壊して、埼玉県人に救いの手を伸ばすことができたのだ。それは父からの自立でもあるし、公共意識の芽生えでもあり、何より、麗に向けての愛情でもあった。そう、この映画は百美の成長の物語なのだ。

人生は恋と革命だ。人に惹かれ、価値体系を壊し、別の何かを求めることが生きるということなのだ。埼玉県人だってお花を愛でることができる。お花を憎むことだってできる。僕たち人間は脆く、間違いを犯しやすいものだ。だがしかし、二度と『翔んで埼玉』の悲劇を繰り返してはならない。