イメージの交叉。

ああそうか、“身体”っつーのはキーだ。
“私”ってのもキーだ。
“私にとっての身体”っつーのもキーだ。

赤ちゃんはさ、“私”がほとんどないわけじゃん。“身体”が世界なわけだ。伝染泣きみたいなことが起こるわけだし。

でね、ちょっと大きくなると、人の中には“私”が出てくるわけだ。身体は“私にとっての身体”になり、世界は“私にとっての世界”になるわけだよね。

でもさ、例えばダンスを習い始めたちびっ子って、なんだかぎこちがなかったりするよね。自分の思い通りに身体を操れていないっていうか。でも、だんだん慣れてくると、“私”と“身体”が癒合しだして、気持ちいい表現ができるようになってくるわけだ。

僕はスポーツが苦手だからうまく表現できないけど、プロのアスリートとかの癒合感ってすごいよね。“私”と“身体”が一体になって競技をこなしている姿はすごい。

っていうふうに考えると、「身体と世界が癒合しているような状態に亀裂が入り、“私”という意識ができてくるにつれて、身体や世界は“私”にとっての対象として現れてくる。そして、私たちは“私”にとっての身体や世界を極端に対象化して客観世界を作り上げることもできるし、癒合感を高めることもできる」って感じで表現できそうだ。

でね、僕がなにを言いたいかっていうと、“おっちゃんの切なさ”なんだ。

いやあのね、今日、コンビニでレジを打ってくれたおっちゃんが、ちょっと切なかったんだ。

たぶん、60歳前後じゃないかなぁ。
オーナーかもしれないし、コンビニでバイトをせざるを得ないような事情のある人なのかもしれない。まぁ、背景はなんでもいいんだけど、このおっちゃんはハキハキした声で喋るのね。いや、実際は喋れてないんだけど、おっちゃんはハキハキ喋ろうとするんだ。
そしておっちゃんは、テキパキと商品のバーコードを読み取って袋に詰めて、会計処理をしようとするの。できないんだけどw

なんかさ、中年って、変な走り方をしたりするじゃない。なんていうか、「早く走るぞ!」って思いは伝わってくるんだけど、それに身体がついていってなくて、変なフォームになっちゃうっていうのかな。今日レジをしてくれたおっちゃんには、このズレた感じがすごいしたんだ。

“私”と“身体”の癒合感が薄くなってズレている感じ。

こっからは妄想なんだけど、身体を軸にして成長の過程を考えると、このおっちゃんも最初からこうじゃなかったと思うんだよ。少なくとも赤ちゃんの時は身体と世界は癒合していたわけだし。そして、こんなふうにハキハキ喋ろうとするってことは、きっと働き盛りの時はハキハキ喋れて、テキパキ動けていたんじゃないのかなぁ。

そう思いを巡らせると、おっちゃんの“私”と“身体”が解離してしまっている感じってのが切なくて切なくて・・・ひょっとしたら、歳を取るってのは、“私”と“身体”の癒合感が薄くなっていくってことなのかも知れないなぁ。“身体”を“私にとっての身体”として世界に炸裂させようとしても、うまく出来なくなってしまうということなのかも知れない。

ここで凄いことに気づいた!僕は42歳だ!おっちゃんじゃないか!僕の身体は僕にとっての身体でいてくれているのだろうか?身体は僕から離れてしまってないだろうか?・・・こんなことを考えながら、僕は両国亭へ向かいました・・・「両国お笑い寄席」です・・・。


「両国お笑い寄席」は初めて行ったけど、いい雰囲気で楽しかった!

八ゑ馬「つる」
志ん吉「鼓ヶ滝」
昇々「マキシマム・ド・飲兵衛」
はな平「井戸の茶碗

「マキシマム・ド・飲兵衛」はいろんな噺家さんがやってるんだね。昇々さんの老夫婦のキャラ設定が化け物染みてて面白かった!


でね、僕は落語を聴くとき、どうやら“私にとっての”という見方にとらわれ過ぎていたのかも知れない。
つまり、噺家さんの噺を聴いて、所作を見て、僕の内的世界にどんなイメージが湧き出るかってことを楽しみのポイントにし過ぎていたようだ。

いや、もちろんそれは肝だと思うよ。落語は共感の芸だともいうし、聴き手の中のイメージが動いてくれないわけには楽しみようがないわけだし。

でもさ、高座での落語家さんは、“落語家さんにとっての身体”を使って噺をしているわけだ。それは、落語家さん(この文脈でいうとこの“私”)の中にイメージの世界があって、それが“落語家さんにとっての身体”を通して表現されているってこと。まぁ、中には内的世界が感じられず、空虚なアクターとしか思えないような噺家さんもいるけど、それはそれとして・・・。

そんなわけで、最近「落語はイメージの交叉」ってツイートをしたのは、なんとなくこんなことを考えるようになってたからなんだ。

僕は落語を楽しむ時の力点を、自分のイメージの世界を楽しむところから、噺家さんのイメージの世界を感じ取るほうにシフトしてみようかな。そのためのキーは“身体”。“噺家さんにとっての身体”でもあるし“私にとっての身体”でもあるし、その交叉する感じを楽しめたらいいなぁ。