アポロン不在。

そもそも、僕らの文化の中にはアポロンがいない。
いや。
アポロン的な傾向が得意じゃない。
だから、理性だとか社会だとか、そうした形象化されたものを操ったりしようとするとおかしなことになるわけだ。

アポロン的っつーのは形作られたもの。音楽的なものに対する彫刻的なもの。律のようなルール。目に見えるもの。理性。
これに対してデュオニュソス的なものっつーのはもっと抽象的な感じで、音楽とかだ。お祭りのような混沌とした感じ。

で。
僕は。
「いっくらアポロン的なものっつーのが大切だっつったって、その根っこにあるような目に見えない抽象的なデュオニュソス的な躍動感がなけりゃあ生きてる心地がしないだろう」って思ってて、デュオニュソス的なものが大切だと思ってた。

が。
必要なのはアポロンなのかもしれない。
理性なのかもしれない。
律なのかもしれない。
だがしかし、僕らの文化の中にはアポロンがいないから、必要なんだけど、それのモデルがない。ないにもかかわらずそのモデルを求めようとすると、「悪いことを怒って注意してくれるおやじ」みたいな父親像が出てきてしまう。そもそも、その父親像自体もはや不在で理念の世界にしかいないのに、僕らはアポロンのモデルをもてないから、不在の父性をもとめようとしてしまうのだ。

どっちも不在だから求めても不自然。

先日職場の飲み会があったようだけど、びっくりするほどデュオニュソス的だったらしい。
まぁ、そんなもんだろう。
日本人だしw

きっとそっちが僕らの本性で、かりそめのアポロンで自分をごまかしつつ、デュオニュソス的なつながりの中で満足しているっていうのが僕らの文化の在り方なんだろうなぁ。

そうなると、今必要なのはかりそめのアポロンではなくて、ほんとうのアポロンだ。
ここで注意すべきはやっぱり「ほんとう」という言葉の意味です。
ほんとうというと、「絶対正しい」とか「真実の」とか思いがちだけど、必要なのはそうじゃあなくって、自分で自分の意識を反省して、「理性がどんな成り立ちをしているのかセルフチェックをしてみる」ってことなんだろう。
そのうえで、律やルールや社会をめがけないと、デュオニュソス的なつながりに規定されたかりそめのアポロンから逃れられなくなってしまう。。。


あー。

ここまで書いてきて、「そもそもデュオニュソス的なアポロンから逃げる理由はあるのか?」って思えてきた。
その動因はなんだろう?

いや。
「背景に疑問を持つ」という構えが動因になるのかな?
背景的な価値評価を括弧に入れてしまって吟味してみないと、現実に何が起こっているのかわからなくなってしまう。
そんでこの現実検討識能力不足は、簡単に偏見や差別を生んでしまう。だからこそ、デュオニュソス的なアポロンを解体して、アポロンの成り立ちを探査する必要があるわけだ。