日常生活の中では懐疑は必要とされない。

今日は微妙な飲みで、酩酊の帝国に突入しつついるのだけど、シャワー浴びて若干復活したので、今のうちに文章を書きます。

今、木村敏氏の「関係としての自己」って本を読んでいて、序文を読み終わって第一章に入ったんですが、そこで面白い表現に出会いました。




っていうのも、前回の文章で書いたように、僕らは“頭蓋の空洞”に包まれて生活をしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/59922269.html

そして、安全な社会生活が成立している以上、僕らは“頭蓋の空洞”に対して疑問を抱きません。

どうにかして安全な社会生活が成立しなくならないと、“頭蓋の空洞”に対する疑念は問いとして現れないみたいです。




現象学的社会学者のA・シュッツは日常性のことを「至高の現実」と名づけたそうです。
そして、こうした「至高の現実」に疑問を抱かないことを「自然な態度のエポケー」と表現しているみたいです。

現象学でいうエポケーって<判断停止>って意味で、すでに自明な確信として成立している世界の実在性をいったん止めて、括弧に入れてしまってみるって感じです。
こうしておいて、その成り立ちを調べてみるようなのですが、どうやら「自然な態度のエポケー」って表現は、その間逆みたいです。
世界の確信を括弧に入れるんじゃなくって、世界の実在に対する懐疑のほうを排除することで、日常性の自明性を保証するようです。

そして、この本の中で面白かったのは、この「自然な態度のエポケー」のことを「生活の知恵」と呼んでいるところです。

生活の健全さを保つために世界に対する懐疑が抱かないように、懐疑の態度を自然に停止してしまっている・・・。


確かに、その通りだよなぁ。。。

なにか病的に危機的な状態にならないと、自明性がどうなっているのかなんて問いとして成立しないもんなぁ。。。


ってことは、こうした自明性の成り立ちを探っていくような学問ってのは、日常生活を問題なく送っている人たちにはあんまり意味がないのかも。

どっかで危機的状態に陥って、それをなんとかしなきゃって態度にならないと、現実がどうなってるのかなんて、探ろうとも思わないだろうし。


まだ第一章の初めのほうなので、明日はもうちょっと読んでみたいと思います。



っていうか、僕はこれから酩酊の帝国に突入するんです。。。

擬似ゾーエーに突入します。。。