意味の多彩。

僕は今32歳です。

32歳は狭間の年代だといえそうです。

心意気は20代後半ですが、もう少しするとあからさまに中年になるわけです。
二つの世代の間に属している年代だといえそうです。

どっち付かずということは、どちらの世代とも距離が取れます。

20代の若々しさとも距離が取れるし、中年のもっさりした感じとも距離が取れます。

さて。

歳をとっても若々しい人たちがいます。
単に身体的に若々しいとか、運動ができるとか、そういうことではなくて、若いんです。

そうした人たちには、ある特徴があります。

彼らは、常に疑問を持っています。
彼らは、自分たちが住んでいる世界について、常に懐疑の視線を向けています。
彼らは、自分たちを背景的に規定している日常性や常識性や、文化的な習慣性に対してさえ、ケチをつけてやろうという態度でいます。
・・・しかも、そうした態度であることを楽しんでいるようにさえ感じられます。。。

ですので、彼らにとっての世界は多様です。
常識的な倫理観や道徳観は、彼らにとっては解体すべき対象であるし、解体されるべき対象ということは、そこから別の倫理観や道徳観が生み出される可能性があります。
彼らは予兆感にあふれているので、接しているとドキドキワクワクしてとても楽しいです。
中年を過ぎて初老の人や老人であっても、そうした懐疑の視線を大切にしている人とは一緒にいてとても楽しいのです。


逆に20代であったとしても、老人のような人たちがいます。
彼らにとって、世界は一つです。
彼らにとっての世界には定立化されている倫理観や道徳観があり、社会があり、そうした習慣性を遵守することが良く生きること、正しく生きることと思っています。
彼らにとっての社会は上意下達(“じょういかたつ”。“げだつ”じゃない。)の仕組みで出来上がっていて、これは守らないといけない。
だから、人を理解して解釈しようとする客観的な立場を維持しようとします。
・・・僕に言わせれば、そんなんは見捨てられ不安の裏返しみたいなもんで、自分で考えることを放棄しているようだ・・・。

彼らは一つの可能性しか生きることができないから、一緒にいて楽しくない。
彼らと接しても、ドキドキしたりワクワクしたりという感覚が得られないのです。
予兆を感じることができないのです。


さて。


僕はこれからどんどん歳をとって、中年を突破して初老になって、老人になって死んじゃうでしょう。
僕の中にある見捨てられ不安のようなものは、「懐疑の視線なんて放棄して、社会を信仰しろ!思慮深さは捨てされ!そのほうが安全だし不安もない。楽になれる。」と僕を誘惑するでしょう。
僕がその誘惑に勝てるのか負けてしまうのか、それともうまくお付き合いをしていけるかどうかはわかりませんが、できることなら予兆的な人でいれればなぁと思います。