白々しさと茶番。

白々しさを感じるときがあります。


どうしようもない白々しさを感じて、これまでの出来事が全て茶番なんじゃないか?って思えてしまう瞬間があります。


たとえば行動を共にしたり、親しく会話をする人がいるとします。
同性でも異性でもかまいません。
その人とはそれなりに親しく、お互いに一人の人格として認め合っています。
“一人の人格として認める”という表現が難しければ、単純に、趣味や興味や、その人がこの世に対してどんな態度をとっているのかを、お互いに尊重しあっている仲といってもかまいません。

そうした態度で接している(と感じている)ときに、ふとした瞬間、なんともいえない白々しさを感じてしまう瞬間があります。

一人の人格として認めるなんていうのは錯覚であり、客観的に在る物のように取り扱われてしまったんじゃないか?っていう感覚です。


僕はまだまだ未熟ですが、これまでも何度かこうした場面に遭遇しています。

最近も遭遇しました。

最初、僕はひょっとしたら病的な状態に陥っていて、この、感じている“白々しさ”っていうものも、被害妄想的ななにかなんじゃないかって思いました。

もちろん、もし僕が常識性のスケールからはみ出た行動をとってしまったのなら、それは病的な状態と判断されるでしょう。
しかし、この感覚から考えを先に進める取っ掛かりがあります。

それはたぶん、マルティン・ブーバーです。





たぶん、マルティン・ブーバーの感じになるんだと思いますが、そこにつなげるまえに、ちょっと前に読んでいた『現象学ことはじめ』(山口一郎氏)の内容について触れます。


この本はとても読みやすくってわかりやすくって、最初のページから順をおって思考実験していけば、意識がどういう成り立ちをしているのか?ということについて、考えを進めていくことができます。
内容としては、見えることとか時がたつこととか本質についてとかと、意識の静態的な構成から始まって、それらを支えている受動性の領域の分析をやって、文化の違いとか理解するとはどういうことか?とか、そういったことの話になります。

で。
めちゃめちゃ乱暴に表現しますが、還元したり判断停止したり本質観取したりいろいろすると、一般的な意識の構造がどんなもんか、だいたい出てくるみたいです。
そういうのを静態的現象学っつーみたいで、それは能動的な志向性(ぶちゃけると日常的な何かしようっていう意識活動)の領域です。

で。
そういう静態的現象学で明らかになった意識の活動をいったん止めてみて、その前提を探ってみると、(乱暴に言うと)意識に気づかれる前に動いている受動的綜合の領域の分析に進めるみたいです。
乱暴に言うと、無意識の領域についてです。
受動的志向性とかの表現が出てきます。

まとめると、日常的な意識的な活動が行われている能動的志向性の領域があって、その下には、意識に気づかれずに働いている受動的綜合の領域が発見されてくるって感じです。


で。

そこで。

ブーバーの“我-汝”関係や“我-それ”関係を引き合いに出してきます。
“我-汝”関係も二つに分けています。
幼児期の“我-汝”関係と成人してからの“我-汝”関係です。


幼児期の“我-汝”関係は受動的綜合の領域に相当するようです。
小さい子って、自分と他人が一緒になってるでしょ?
もらい泣きするし、物に怒ったりするしw
そういう感覚とか情感っていうか、そういうのが行き来する場面だから、幼児期の“我-汝”関係っていえそうです。

“我-それ”関係は、能動的な志向性、つまり、普通の意識活動が行われている領域に相当するそうです。
普通に社会生活をしていたり、客観的に分析したり理解したりとか、そういう場面です。

で。
そうした能動的な相互主観性の領域が突破されて、お互いの人格的なやり取りがされるような場面が、成人における“我-汝”関係に相当するようです。
客観的な分析とか理解とかそういうことじゃなくって、人格交換の場面っつーのか、僕はまだ適切な述語を持っていないのでうまくいえないけど、なんとなく、雰囲気的に人格交換の場面です。






で。

最初の話に戻ります。

僕たちは社会生活をしています。

“我-それ”関係です。

日常の中では、それぞれの利害や能力とかが問題にされます。

人とであって仲良くなると、こうした日常性がどうでもよくなって、お互いの人格を尊重しあえるような仲になれるときがあります。
最初に表現した、お互いのこの世に対する態度を尊重しあえているような仲です。

“我-汝”関係です。

友情とか愛情とか、そうした感覚です。(だと思う。たぶん。きっとそういう述語じゃ貧弱かもしれないけど、わかりやすくいうとそんな感じw)

こうした“我-汝”の感覚はとても貴重で、そして心地よくもあって、創造的でもあるし、期待感や予兆感や、いろいろなものに包まれます。

だがしかし、一気にこの感覚が崩壊して、“我-それ”関係になってしまうことがあります。



・・・ネットでいろいろとブーバー関係の記事を拾っていたら、面白い記事に行き着きました。。。
相手に“我-汝”関係と思わせる天才がいるっていう内容です。
例として、田中角栄西郷隆盛が上げられていました。
田中氏は意識的に、西郷氏は無意識的に、相手に自分とは“我-汝”関係にあると思わせる能力(っていうかセンスだよね)に長けているって表現されていました、

僕は、なるほどなぁって思いました。

確かに、カリスマ的な人物って、“我-汝”関係を相手に思わせるのが得意なのかもしれません。


・・・仮に、このセンスのことを“微笑む石像”と呼んでみます。。。


じゃあ、僕が感じた感覚とはなんだったんだろう?

“我-汝”かと思ったら“我-それ”関係だった。。。

たぶん、偽の“微笑む石像”をもった人たちだったんだろう。。。

偽っていうとまるで真があるようだから、偽じゃなくって、“微笑む石像の擬態”って表現したほうが良いかもしれません。。。


僕が出会った“微笑む石像の擬態”たちは、まるで“微笑む石像”のセンスがあるかのように振舞っているけど、田中氏や西郷氏のように天才的なセンスの持ち主というわけではないから、ボロが出てしまったということなのでしょう。

白々しさが溢れ出て、その人の行動が茶番になる。。。

あまりにも白々しいと、その人に惨めさや哀れな感覚さえ抱いてしまいます。




でね。
たとえば僕が白々しさを見抜くとするでしょ。
そうすると、その人はアグレッションで答えてくるんだ。
怒りとか攻撃性をもって接してくる。
そりゃそうだよね。
本当は隠して起きたい部分を見られたわけだから、怒って当然だ。
ってことは、もし、僕が大人として社会生活を続けたいなら、“微笑む石像の擬態”の愚鈍なセンスに抵抗せず、“我-汝”関係だと思い続けることが必要なのかもしれません。

でも。
もし、その人に友情なり愛情なりを感じているのなら、“微笑む石像の擬態”のセンスを使わないでも“我-汝”関係に行き着けるように一緒にいろいろ考えてみることも必要なのかなぁ。




で。




こっからはまったくの思いつきだから疑いながら読んでほしいのですが、どうやら、お酒を飲酒すると、人は簡単に“我-汝”関係が成立していると錯覚させられてしまうみたいです。

たとえば、酔っ払って魅力的になる女性がいるとするでしょ?

雰囲気も良くって、会話もぐるぐる回してくれて、まるで人格交換的なやり取りが成立しているような気にさせてくれる。

・・・ぶっちゃけると、キャバ嬢的な人だw

そういう時の“我-汝”関係って、成人における“我-汝”関係じゃなくって、幼児期における“我-汝”関係に近いんじゃないのでしょうか?
社会的に生きている能動的な志向性の領域を突破されて成立する、友情や愛情の“我-汝”関係じゃなくって、赤ちゃんがもらい泣きをしたり物に怒ったりしている、そうした“汝ー我”関係ってことです。

だから、浅はかだし、貴重でもなんでもない。

友情でも愛情でもない。

でも男はバカだから・・・っていうか幼児期の母親との“我-汝”関係を求めているからなのかもしれないけど、キャバクラにはまったり、風俗にはまったり、女性にだまされちゃったりするんだろうなぁ。。。
(あ。僕がそういう状態にあるってわけじゃないんでw。。。アディクションのこととか、僕のキャバクラ体験とか、いろいろ考えてたら、こんなことを思いついたって感じ)




で。




僕はここから集団についての話に進めていきたいと思います。

幼児期の“我-汝”・日常的な“我-それ”・成人における“我-汝”関係をもとにして、集団について、もっといえば、集団療法の功罪みたいなものに話を進めていきたいとおもいます。


だ。

が。

しかし。


その話をするには、僕はあまりにも集団療法について素人なので、できません。


な。

の。

で。

僕はとりあえず、ブーバーの「我と汝」を読んでみたいと思います。


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