断絶への航海・・・のようなもの。

ああそうか。。。
断絶されていくということなのかもしれないな。。。

とても乱暴に表現するけど受精するじゃん。
そんで母親の胎内で育っていくじゃん。
そのときは物理的にも母親と癒合しているわけだ。
で、生まれるとへその緒が切られて物理的に母親から断絶されてしまう。でも生まれてからしばらくは癒合した状態が続くよね。ほら、赤ちゃんは隣の赤ちゃんが泣き出すとつられて泣き出すようなことあるでしょ?母親が笑うとつられて笑い出したりもするし。
で、だんだん育っていくと、外側で起こったことと自分の身に起こったことが区別されてくるわけだ。だんだん“私”ができてくるわけだね。

だんだん“私”になっていったとしても、“私”は世界と完全に断絶しているとは言い難い。学校の教室にいても、なんとなく楽しいなぁって感じているときもあるし、どうしようもなくつまらないなぁって感じるときもあるわけで、そういう底のほうで繋がっちゃってる感じは、僕たちの現在を生き生きと生気づけてくれています。

スポーツしたり音楽したりすると、この底のほうで繋がっちゃってる癒合感を強く感じることができるんだ。なんとなく自然に体が動いちゃったり、タイミング良く音や声が出ちゃうことってあるし。そもそも、うまいことこの癒合感が動いてくれないことには、いい成績を残すことはできないし感動もないだろうな。

社会に出ると、ますます断絶感って強くなるよね。
“私”個人として社会的な責任を追わされたり、どう生きていくか判断を迫られたりする。ひょっとしたら社会は、癒合状態から脱出できている人を、“自律した人間”として称える傾向にあるかもしれない。そうした人のほうが社会的な成功をおさめやすいのかもしれない。

でさぁ。
中年以降になると、もうもう断絶感ってひどくなってくるんだよw
これまでの経験の中でしか行動できなくなってしまうっていうのかな。とくにやっかいでめんどくさいのは、仕事にしても趣味のことにしても、何かを“本当”として仕立て上げてしまう人たちだ。

その“本当”が世界と繋がっているうえでの疑えなさなら、それは客観として成立するかもしれない。
でも、その疑えなさの根拠が過去の経験であって、さらにその経験が現在とズレてしまっているのなら、その人は世界と断絶されていると言わざるを得ないだろうな。
・・・いわゆる老害ってやつだ・・・。

身体についてもそう。
若いころは“私”と身体は十分に癒合していて、けっこう思い通りに動かせるけど、おっちゃんたちってなかなかそうはいかないよね。走るときのフォームにしても、なんとなく不自然でぎこちなくって、断絶している感じがよく観て取れる。

でもこれは、責めるべきことでも悲しむべきことでもないんだ。
人はそういうものであって、断絶を止めることはできない。そして身体との断絶が成就されると、人は世界そのものから脱出することになるのだろう。

さて、翻って今の自分のこと。
僕は今41歳です。
そして、趣味は落語や講談や浪曲など、生の演芸を楽しむこと。
今現在、僕はこうした演芸の歴史性にあまり左右されることなく、自分の中に残っている癒合感を軸にして感覚的に楽しめているようです。
でもさぁ。人間であるからには死ぬまで断絶は続くんだよ。

僕の現在はだんだん演芸経験に覆われて、直接的に“いま・ここ”で起こっている現在の経験からズレてしまうのかもしれない。ひょっとしたら僕は、演芸の“本当”を語り出して、演芸の現在を非難しだしたりするかもしれない。
そうなったら・・・そうなったら僕の走るときのフォームは、きっとぐだぐだなものになっているだろうなwww

まぁ、そうなったとしても、それはとても人間的なことであって、自然なことだと思って大目に見てくださいw

でもなぁ。。。
できることなら癒合感を大切にしたいよなぁ。