加齢感。

みなさま、誕生日へのたくさんのお祝いコメントありがとうございます。
ひとつひとつに返信をしていると、とても時間が足りないので、申し訳ありませんが割愛させていただいて、代わりにお礼の文章を記載することにします。

本日を持って、私は41歳になりました。
この歳まで生きることができたのも、ひとえにみなさまのおかげだと感じております。

さて、41歳を迎え、私はひとつの目標を立てることにしました。それは、“なにげなく変な表情をする”ということです。“おもしろい表情”ではありません。おもしろい表情じゃあ、おもしろくありません。おもしろい表情なんてものは40歳までで、41歳からは“なにげなく変な表情をする”でなければなりません。

なにげない変な表情・・・それは、“あれ?・・・この人ちょっと・・・”みたいに感じられて、はたして笑って良いのか悪いのか判断に迷ったあげく、ちょっとだけ苦笑いになってしまう、みたいな表情です。“笑うことが失礼に当たるのではないか?”という思いが一瞬脳内によぎってしまうような表情です。おもしろさとは違います。求められているのは変なふうになる変な表情ということなのです。

そして、この変な表情を繰り出すには、なによりタイミングが大切です。“さあ!これが変な表情だ!”という心持ちで変な表情を繰り出してはいけません。そんなのは40歳までです。41歳になったからには、“なにげなく”なのです。仕事のふとした合間・・・休憩のひととき・・・楽しげに会話が弾んでいる友人の視線がふと外れたその一瞬・・・といった、日常のなにげない瞬間というタイミングが大切なのです。そして、このなにげない瞬間にたまたまそこにいた誰かが、僕のこの一瞬の変な表情を目撃し、違和感を感じ、判断に迷い、その判断を乗り越えて思わず苦笑いをしてしまったそのときに、僕の目標は成就されるのです・・・。

お年寄りにはできるだけ席を譲ります・・・。子供たちには笑顔を振りまきます・・・。選挙にも行きます・・・。できる限り優しい心で生活することを心がけます・・・。

だがしかし、そんな振る舞いをすること自体は人生のおまけみたいなもので、私にとってはほとんど意味がないのです。それよりも私は、私が私の為に立てた、“なにげなく変な表情をする”という目標に向けて生きるのです。それこそが自律的に生きるということですし、実存的自由の具体的な実践でもあるのです。