バツグンの靴。

夜勤が明けた。
そして雨だ。
雨の中を歩行すると、真っ先に判明したことがある。それは、僕が履いているこの青色の靴は、思った以上に吸水性バツグンだということだ。もうね、会社から外に一歩踏み出したところで、靴がみるみる水を吸い上げていく様子が把握できるんだ。それは足の裏の感覚が僕に教えてくれることで、その感覚は雨水という対象に向かっている・・・。

雨水という対象に向かいつつある感覚を修正して歩くことに注意を向けていると、ふと、ある気づきを得ることができました。それは、出来事の結節点に意味が浮かび上がる、あの感覚だ。遙かな過去と有り得ない未来が“いま・ここ”に去来するあの感覚。

浮かび上がる意味は、“歩行はすごい”ということだ。

いや、歩行することを賛美するのでは、歩行できない人たちがこぼれ落ちてしまう。

だから、正確には歩行することがすごいんじゃなくって、移動できることがすごいと言うべきなんだろうな。

いやはや、移動はすごい。

移動すると世界がどんどん展開されていくんだ。展開される世界の地平はほぼ無限で、その都度その都度違う光景が僕の現在に訪れます。たぶん、似たような光景が訪れることはあるけど、全く同じ光景が訪れることはないだろな。そうしたわけ、無限はけっこう近くにあった。そして、訪れた光景は、僕にとっての過去の出来事として、僕の過去の地平に溜まっていくんだ。過去の地平に溜まっていく現在の出来事は明瞭さがだんだんなくなって、ふわふわした感じになっていくのだろう。この吸水性バツグンの靴が体験させてくれた“水がぐんぐん吸い上げられていく”という感覚もぼんやりとしたものなっていくんだ。そして、過去が溜まると、予期と共に“次にどんな光景が訪れるんだろう?”っていう未来の地平が開かれます。未来に何が訪れるかはわからないから、ここにも無限があった。

そうなんだ。
移動をすると、こんなふうに時間化が進んで行くんだ。いや、時間化はいつでも行われているから、“移動すると時間化を体験できる”と表現したほうが正確かな。

僕らのキルケゴールは、絶望している者に対する特効薬は可能性だというようなことを言っていた(たぶん)。世界が無限に開かれていることを把握する、とても具体的で身近な方法は移動する事なのかもしれないな。そうだ。僕はここ最近、家から演芸場までの移動ばかりを繰り返してきた。今日もたぶんどこかの演芸場に移動するのだろうな。だがしかし、たまにはどこか遠くに移動して、全く未知の地平を展開させるのもいいかもしれないな。ああそうだ。どこか遠くで開催される落語会かなにかに行ってみるってのも良いかもしれないw