おぼえがきいいいいい。

落語や講談に興味を持つということは、僕は自分を支えてくれる文化のようなものを求めてしまっているということだろうな。

でもね、文化を求めるというのは危険なことでもあるんだよ。なぜなら、文化と自分自身が一体化すればするに連れて、自分の中に“ほんとうーうそ”という価値体系が生まれてしまうからなんだ。そして、この価値体系を真実の王国と祭り上げて、それにそぐわないものを“うそ”として排除してしまこともあり得るんだ。

これではつまんない。

真実の王国で幸福でいるのもいいし、それはそれでひとつの在り方だろうし、僕も落語や講談を聴きながら、そうした安心感を味わっていることも確かなことではあるんだ。でもね。心を踊らされるのは、真実の王国に抵抗しているような新作を作り出す人たちなんだよなぁ。それは、未来の地平が開けてくる感じともいえるだろうし、その感じを味わえたときはとても楽しいの。

でね、僕が価値に陥らず、例外を“うそ”と排除せずに生きようとするのなら、どこかで文化にケチをつける必要があるんだろうなぁ。これは、落語や講談を聴くときにも言えることで、今後は僕の中で、どうやって落語や講談を手放しながら落語や講談を聴けるかってのも課題になるんだろうな。



ああそうか。価値ではないんだ。幸福でもないんだ。そうじゃなくって希望なんだ。

希望に心が踊るときの、あの至高の体験を希求するなら、どこかで文化に抵抗する必要があるってことなんだろうな。