笑いの質についてのメモ書き(寄席についての感想です)。

今日(19日)は、連雀亭のきゃたぴらと某定席の夜の部に行ってきたんだ。
連雀亭はなんだか居心地が良くて、いい気分で居れたんだけど、某定席ではどうも居心地の悪さを感じてしまった。連雀亭は二ツ目の講談師さんが登場する日で、(僕は芸を評価できる立場にないけど)勉強中の方々ではあるけどいい雰囲気だった。某定席のほうはとてもいい顔付きで、独演会や落語会とかに行ったことのある噺家さんも出ていたんだけど、なんだか居心地の悪い雰囲気だったんだよ。でね。なんでこんなふうに感じたのかってことを考えると、そこにはどうやらお客さんの質が大きく関わっていそうなんだ。

で、こうしたことを語るときには注意をすることが必要で、気を付けないと主義や主張のような文章になってしまう。まずやらなければいけないことは、“良い‐悪い”や“本当‐嘘”といった価値評価はできる限り括弧に入れてしまってしまうことだ。そうしないと、どうしてもどこかの誰かと対立をしてしまうし、いつでもどこでも誰にでも共通する明証度の高い表現にはなり得ない。で、厳密に語るためには知覚の成り立ちから語ってあげる必要があるんだろうけど、残念ながら僕にはそこまでの語彙力と技術がないので、メモ書き程度に頭に浮かんだことを残しておきます。

まず、人が出来事に対するときの態度を‟意識的”と‟自然的”に分けてみます。
‟意識的”とは、自分で自分の行動に気づくことができているということです。なにか目的をもって行動しているときには意識的になっている必要があるわけで、そうでないと危なっかしいわけで、まぁ、何かをしようと思ってしているときの態度です。

このとき、意識の対概念として無意識を連想しそうですが、無意識という言葉はあまり使いたくないなぁ。。。なんていうか、表現したくない意味までくっついてきてしまいそう。なので、ここでは“意識的”に対するもう一つの態度のことを‟自然的”と表現してみます。‟自然的”って言葉で表現したいことは、意識に気づかれる以前にすでに動いてしまっている、雰囲気だとかムードだとかそういうこと。‟自然的”という言葉の中に、文化的な価値観や習慣性を含めていいかどうかはちょっとよく考えないといけないけど、なんとなく馬が合うとか呼吸が合うとか、そういうレベルのことを‟自然的”って表現したいと思います。

そして、その出来事が誰にとっての出来事かということで、‟主観的”と‟相互主観的”って表現もしたいな(・・・いきなりこんな表現をするのも言葉足らずだけど、とりあえずメモということですみません)。ここで表現したいことは、その出来事の了解可能性についてで、対峙している出来事が、自分だけにしか了解できないものか、それとも他者と共有可能なものかどうかということです。

この、出来事に対する態度としての‟意識的”‟自然的”と、出来事の了解可能性としての‟主観的”‟相互主観的”という軸から、笑いの質について探ってみよう。

これらの軸を使うと、笑いの質というのは、「意識的で主観的な笑い」「意識的で相互主観的な笑い」「自然的で主観的な笑い」「自然的で相互主観的な笑い」と分類できそうです。そして、僕が寄席とか落語会に行って、なんとなく違和感や居心地の悪さを感じるのは、どうやら「意識的で主観的な笑い」を聴いたときのようです。つまり、その人個人の中でしか笑うことのできない笑いのポイントで、“笑おう”“楽しもう!”と意識して作り出される笑いってことです。この笑いは(僕にとっては)けっこう驚異的で、違和感しか感じない。“異他的な不気味さ”ってやつを感じてしまう。そして、僕にとってこの笑いは支配的とも感じられて、会場の空気感も微妙な感じになってしまう(と感じてしまう)。

「意識的で相互主観的な笑い」は深夜寄席とかでよく遭遇する笑いですね。若者に多いかもしれないな。“笑ってやるぞ”と意識しながらも、他者と共有可能なポイントでの笑いだから、決して外してはいないんだ。若干走り気味にはなって疲れるけど嫌じゃない。むしろ、なんだか“やったぞ!”って気分になれるかも。っていうか、末広亭深夜寄席のあとって、何とも言えない達成感があるんだよなぁwあの感覚っておもしろいなw

次に「自然的で主観的な笑い」。これは、たまに自分の世界で笑っているお嬢さんとかを見かけるんだけど、あの感覚なんだよなぁ。その人独自の笑いのポイントで自然と笑ってしまっているっていうのかな。独特だけど自然だから、聴いていていやな気分はしない笑いだ。

最後に「自然的で相互主観的な笑い」。僕はこの笑いが一番好きだな。寄席の醍醐味はここにあるのかもしれない。みんなで一緒にいい雰囲気になって自然と笑い出すあの感じ。

今日の連雀亭には「自然的で相互主観的な笑い」があったはずなんだ。少なくとも意識して笑ってやろうという人はいなかった。かといって、“笑ってやるもんか!”って人もいなかったし、とにかく自然に同じ空間にいて講談を楽しむって雰囲気があった。だから居心地が良かったんだろうな。逆に、某定席夜の部は、「意識的で主観的な笑い」をする人がけっこう多かった気がするな。なんていうか、他者と断絶されて、自分の世界で意気込んで笑っている感じ・・・思うに、好きな芸人さんの番組を家でひとりでテレビの前で見ている感じに近い笑いなのかもしれないな・・・。

さて。
いろいろ書きましたがこれはメモ書きです。
突っ込みどころは満載ですw
そもそも、ここに書かれている分類の仕方自体、「いつでもどこでも誰にでも、その人が人間であるのなら共通する分類ですよ」ということを言い当ててあげないと成立しない。それを成立させるためには、人間であるなら誰にとっても疑えないこと、つまり、知覚についての分析から始めてあげる必要があるんだろうな。僕は「意識的で個人的な笑い」を、会場を凍り付かせるほどの驚異的な笑いだと感じていて、このこともうまく言い当ててあげたいんだけど、難しいね。この文章だと単なる個人的な感想になってしまっている。

さぁ、ここまで噺家さんの芸についての言及が全くないぞwww
僕はまだまだ落語や講談とか聴きを始めて間もないからそういうのを語ることができないってのもあるけど、噺家さんの芸を分析して評価しちゃうってのはなんとも色気がないからいけないねぇ。

僕が語れる範囲としたら、僕の心の中で何が起こっているのかとか、そうしたところだろうな。