‟ほんとう”から脱出したい。

所属感だな・・・
所属感があると安心感につながるけど、所属感に執着すると対立を招いてしまう・・・

まぁ、それが人間らしさってことなのかもしれないけど・・・ってことは、なにかに所属していなかったとしても安心感を持てるようにするってのが肝のような気がしてきた・・・。

なんでこんなことを考えているのかというと、僕は落語聴き始めて(っていうか寄席に通い始めて)一年経ったから。
まだまだ客歴は短いけど、それでもなんとなく自分の中で落語クラスタに所属している感じが生まれてくるのがわかるんだ。
そうなると自分の心の中にふつふつと本来性が生まれてきてしまうのがわかる。この本来性ってのは、例えば、落語を聴くときの聴き方であったり、「おもしろい落語(噺家さん)はこうあるべき!」みたいなそうしたもの。つまり、形式化された価値体系ってことだ。この本来性ってのがホントに厄介で、多くの対立の根っこにはこの本来性への執着ってのがありそう。

ああそうか。
大衆芸能が芸術化してしまう過程には、こうした形式化された価値体系が本来性として認められていくってのがあるのかもしれないな。
そう思うと、新作を作っている方々は本当にすごいよなぁ。ある部分では本来性に抵抗しているってことなのかもしれないものな・・・。

対立の根っこには所属感や本来性への執着がありそうだ・・・ニュースとかで「若者は礼儀正しいけど50代以降の中高年はマナーが悪くて大変」って内容のをちらほらみかけるけど、こうしたところにも所属感と本来性への執着があるのかもしれないぞ。何への執着かというと、それは社会的な自尊心だ。

社会的な自尊心・・・
仕事をして、社会的に認められて、安心感を得て、自分の権利を主張して・・・結果、若者たちのような謙虚さがなくなって、老害のような迷惑な存在になっていく・・・ああいやだ・・・

僕は昨年四十になって、僕の中にもこの不愉快な社会的自尊心が湧き出てくるのがわかるんだ。
いやだなぁ・・・歳を取るってのはこうしたことなのかなぁ・・・円丈師匠の『ろんだいえん』の中に、「自分の中にある価値観なんて上着を着替えるように脱ぎ捨ててしまえ!」って感じの言葉があったっけ。自分の中にある本来性(形式化された価値体系)なんて壊してしまいたい。壊すっていうか、そのつど脱ぎ捨てて編み変えないと、どんどん生きづらくなってしまいそうだ・・・。