お月様みたようななにか。

左に行く必要があったんです。なぜならば、僕は前のほうではなく後ろのほうから入ったので、やはりその場合は左に行くべきだし、左に行くということは小学生の頃に先生たちが教えてくれるものであるから、僕はやはり左に行く必要があったんだ。

だがしかし、黒は“白でない”という消極性のなかで掴み取られるものであるし、消極的な観取がなければ、次に黒を観たときに僕はそれを“ああ黒だ”と思うことはできないわけで、それはやはり小学生の頃に先生たちが教えてくれることなのです。

そうした合理性的な理由から、僕の現在は履歴まみれだ。僕は左に行かなければいけないのに、右に進みしばらく歩行してしまった。。。

・・・思えばそんなことの繰り返しだ。。。

ゲームをしていると大人は怒るし、お年寄りには優しくしなければならない。お通夜にはイワシを干したものを頭から食べるのだ。人は成長して地域のために生活し、自分のために生活し、子供の成長を願い・・・広場を歩いていても後ろから“パッ”としたものがもやもやっとなって、三角形みたようなぷくーっと膨らん消えてしまったりはしないんだ。ボールみたいな丸い黄色いものにタバコをたかられもしない。まして、上の方に上の方に登っていって、煙のようにブクブクと浮かんでしまうなんてことはありもしない。。。

だから、ほとんどの人はその習慣性と歴史性を尊重して、現在を生かされているのだ。

だがしかし、その習慣性と歴史性は僕を右に行くように仕向けてしまう!左に行くべきなのに!

・・・だから・・・少し不自然かもしれないけど、習慣性と歴史性に抗って、左を目指すことも必要なんです。

おいしい焼き鳥が食べたいです。