世界的文脈。

今日、「江南スタイル」という歌のPVを初めてみました。

きっとこの歌は、「少し小太りのおじさんが意外によく動きながらかっこよく歌を歌う」というところにおかしさやおもしろさがあるのですね。

そのおかしさやおもしろさの感覚というものは、僕たちの中に既に定立化されている、「少し小太りのおじさんは機敏に動かないものだし、かっこよい歌い方はしないものなのだ」という価値評価への裏切りに由来するのではないのでしょうか?だからこそ、人々はその裏切りに対して、「ああ。おかしいものだ」とか、「ああ。おもしろいものだ」とか、そうした感想を持つことができるのです。そうして、この歌の音楽そのものにもおかしみはあって、それは、微妙に90年代的なハードコアな感じをチラホラと臭わせるせるからです。この音楽の効果により、人々はこの曲に対して懐かしさを感じることができるのです。

「おもしろさ」、「おかしさ」、「懐かしさ」、この三契機が「江南スタイル」の本質的特徴なのです。

思えば僕にとっての90年代はおもしろくもおかしいもでありました。
だがそのおもしろさとおかしさというものは、「少し小太りのおじさんが意外によく動きながらかっこよく歌を歌う」 というものではなく、「貧弱な少年がキャパ以上のおかしな自己表現をしようとして失敗している」というおもしろさやおかしさなのです。そしてそれは「滑稽さ」と表現するのが適切なのでしょう。

そうして、テレビに映るボディコン姿のお姉さんやハードコアテクノに対して、僕は未知の憧れをいだいたものです。そのあこがれは、ハードコアテクノのように機械を利 用すればいろいろな自己表現をすることができるのだなと、自分自身の未来の地平が開けていくようなものでもありました。

あれからもう20年近く経つのです。
あのころテレビで見たボディコン姿のお姉さんやハードコアテクノたちは、適切に僕の過去の地平に礼儀よく定着しているのだろうか?不作法な定着の仕方をして、僕の“いま・ここ”をね じ曲げたり歪ませたりしていないだろうか?

小太りの意外によく動くおじさんの姿と懐かしさを感じさせる音楽は、僕の過去地平に眠っている故郷的世界を、僕が今生きている現在に覚起さてくれたのです。

だがしかし、人は死ぬのだ。

人は、未だ到来しない経験不可能な未知の可能性である“死”に向かって突き進むのだ。

だからこそ 、僕らは安寧の故郷的世界に満足していることはできないのだ。
アラザルの未来地平に自らを投企させて、“他の可能性”を探る必要があるのだ。

だから!

・・・「江南スタイル」のおじさんありがとうございます。。。

あなたは僕におもしろさとおかしさと懐かしい感覚を与えてくれました。
だがしかし、僕はそれを糧にして別の可 能性をめがけることにします。
たぶんその時に大切になるのは「了解」なのです。
過ぎ去った出来事をどうやって過去の地平の中に礼儀正しく沈殿させてあげるかということです。
この「了解」が遂行できなければ、おそらく僕の過ぎ去った出来事は過ぎ去っても過ぎ去らず、いつでも僕の現在を覆い隠すことになってしまうのです。
たぶ ん、そうした履歴に規定される時期はもうそろそろモードじゃなくなる。
別のモードを探して別の可能性を見つけることも出来るのだと思います。。。