相互主観的表象。

すごいこと思いついた!

“ぎち”とか“きち”とかつぶやいてたら、すごいことを思いついた!

・・・いや、「思いついた!」ってより、「発見した!」のほうが適切なのかもしれない!

なので、すごいことを思いついたか発見した!

表象って、相互主観的に生成されるものなのかもしれない!
既に実在しているわけでもなく、主観が生み出すものではなく、相互主観的に紡ぎ出されるものなのかもしれない!

っていうのも、職場の出来事が関係あるんです。
僕の職場には母性をぶつけてくる人がいるんです。
その人は立場的には上の人なんだけど、その人の好意の寄せ方が、僕には「母性的」と感じられてしまうんだ。
そんで、僕はそうした母性にさらされるのを、その人のキャラクターのせいだと思ってたんだ。
つまり、僕に母性をぶつけてくるその人の中に、行き場所のない母性みたいなものがあって、母性をぶつける人がいないから、僕にぶつけてくる、と思っていた。

でも、ふと、僕自身の中に、他者の行為を「それは母性的だ」と解釈してしまうような側面があるんじゃないのかな?って思った。
最初から他者の中に母性があって、それを僕が受け取る、という構図じゃあなくて、母性を出しやすいキャラクターの人がいて、母性を受取りやすい人がいて、そうした両者がいることが前提で、両者の“間”に母性が湧き上がってくるって言えるんじゃないだろうか?

そしてこうしたことは、単に母性にとどまらず、あらゆる表象にいえるのかもしれない。

現象の根源が、事発的な対化現象と表現できるのなら、僕らが抱く様々な表象も、主観だけのものではなく、もちろん客観的なものでもなく、相互主観的な領域で成立してくるものなんじゃないだろうか?(「生成」でもいいし、「紡ぎ出される」というニュアンスでもいいと思う)

というわけで、「表象」概念を適切に表現しようとしたら、「間主観的表象」っていうニュアンスが適切なんじゃないだろうか?