おもしろ三連休。

3連休をもらったので実家に帰った。

昆虫の交尾を見た。

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その昆虫というものはマジョーラカラーでありテクノなのだけれども、交尾している様子はとてもクールで、303の音がうにょーんうにょーんといっていました。でも、クールすぎて気持ちいいんだかどうなんだかまるでわからない。でも、彼らなら、僕ら人間の行動をニューロマンサーのケイスみたいに「肉のすること」と蔑むことが出来るのだろうな。

そして、両親からは「太ったね」「顔が大きくなったね」といわれて、極めつけは「お前の部屋にはウジがわいているのだろう」というふうに言われたのでした。これはきっと、「てめーはウジ虫野郎なんだ」ということを僕に伝えたいのですね。

そうして、もろこしを食べて、寿司を食べて、うなぎを食べて、カレーを食べて、とんかつを食べたのだけど、美味しくていっぱい食べたら、「食べ方が異常だ」と言われたのでした。これはきっと、「てめーは異常なウジ虫野郎なんだ」ということを僕に伝えたかったのでしょうね。

Nです。

犬がNです。

犬が自分の尻尾を自分で噛んじゃうんだよ。
そんで、目をチック症状のようにパチクリするの。
元気ないし。
・・・動物というものは、ビオス的な個を生きているとは言えないだろうな。人間のように、自分と他人を区別して、自分自身に強く自己同一性を感じで“自我”を持っているとは言えないだろう。もちろん、ある程度はあるだろうけど、それはある程度だけであって、ゾーエー的な剥き出しな生を生きていると言えるだろうな。そういう雰囲気や感じが支配的な領域は、受動的綜合レベルといえるかもしれないし、デュオニュソス的領域といえるかもしれないし、ゾーエー的といえるかもしれないし・・・とにかく犬は敏感みたい。僕らの家族の偏った部分に敏感なんだろうな。Nっぽい症状が出てるってことは、僕ら家族はうまく自己表現が出来ていないんだろう。うまく想いを伝えられずにいるから、変な感じが犬の尻尾や目のチック症状に現れてるんだろう・・・どうしたもんか?

・・・社会性や倫理観や道徳観に遮られて、うまく表現できない。



で。
読んだ本は木村敏氏の「関係としての自己」・・・まだ読みきってねーよw
僕は歩みは遅いんです。
その中では繰り返しビオスとゾーエーについて語られるんだけど、やっぱり、微妙に言語拡張したり言葉の意味をずらしたり造語をしたりしないと表現できない世界はあるんだ。ある講義で、「誰にでもわかる論文を作りましょう」なんつってたけど、そんなんじゃ追いつかない世界はあるし、そうした世界をちゃんと表現するスキルっつーのは大切にしないといけないんじゃなかなー。つまり、哲学のスキル。客観的に誰にでもわかる表現をするんじゃなくって、実際に思考実験しないと見えてこない世界を表現するためのスキルっつーのか。。。この本を読んでいてそんなことを思いました。

で。
「構造構成主義とは何か」も最初から読み返してる。最後まで読んでないんだよなー。大切な態度だと思うけど、なんで“主義”ってつけてんだろう?それだと、構造構成主義自体、ひとつの信念だと誤解されないかなー。



・・・ゲームばっかやってたwww
DSのFFⅢやってたんだけど、ところどころ覚えがあるようなないような・・・。
最後までやったことはないはずなんだよなー。
でも、チョコボで大陸一周って、やったことあるし、古代人の村も見覚えがある・・・気がするw


晴れなかったけど、雨が心地よくもあり。
山が大きい。

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山が大きすぎて、日常はどうしようもなく動かしがたいものと感じてしまうのだろうか?・・・どうすればその日常性を崩せるのだろうか?僕が音楽かじってみたり、精神保健の勉強したり、哲学かじってみたりっつーのも、山の巨大さに抗ってるようなものなのかもしれない。つまり、動かしがたい日常性にどうやったら抗えるか試しているってことなのかもしれないな。
で。
今回の帰省では、山の大きさをあらためて感じさせられました。
なんか、これ以上抗っても無理なんじゃないか?って思えてきた。
「背景的な構造に疑問を投げかけるぞ!」って勢いづいてたけど、相手が山じゃ、どうしようもない。

・・・そんなんで、ぐだぐだゲームやって本読んでタバコ吸って散歩して、ほとんど寝てたw・・・そしたら「お前の部屋にはウジがわいているのだろう」「食べ方が異常だ」といわれて・・・犬はNで・・・昆虫はクールな交尾をするし・・・「お前は異常なウジ虫野郎だ」・・・昆虫は交尾をしながら人間やることを「肉のすること」と蔑んでいるんだ。


帰りの車の中ではいろんな曲を聞いてきたんだけど、最後に聞いたのはCKBの「まっぴらロック」。



カラオケで歌えるように練習しよう。

・・・なんだよ・・・このオチwww