現在原則。

“わたし”が“わたし”の物語を生きているのか?
“あなた”が“あなた”の物語を生きているのか?
“わたし”が“あなた”の物語を生きているのか?
“あなた”が“わたし”の物語を生きているのか?



・・・誰が誰の物語のを生きているのか?・・・。



現在は混濁しているます。

具体と抽象が分化されずに混濁しています。
過去の地平と未来の地平とが分化されずに混濁されています。

“わたし”の判断は背景にある膨大な意味のネットワークに接続されていて、その背景とは“わたし”に起こった出来事であるし、“わたし”にこれから起こるであろう出来事の予兆でもあるし。。。
そして、それらの意味のネットワークは決してスタンドアロンではなく、“あなた”の意味のネットワークとも接続されています。
“わたし”の判断は“わたし”の意味のネットワークであるし、“あなた”の意味のネットワークであるし、“わたし”や“あなた”の意味のネットワークを規定している文化的な歴史性でもあるし。。。

現在は混濁しているので、“わたし”は“わたし”だけの物語を生きることはできません。
“わたし”が“わたし”だけの物語を生きようとするのなら、それは独我の罠に陥ることになるでしょう。
個人的な価値評価の内側で出来事を判断するのは、“あなた”の持つ意味の繋がりを無視することになる。
現在が混濁しているという現実を無視して判断を下すのならば、それは現在から遊離した観念の世界で意味と戯れているようなもので、現実に妥当とはいえないだろう。

“わたし”は“あなた”によって生かされているのではなく、“あなた”は“わたし”によって生かされているわけではない。

現在は混濁しています。

このどうしようもない現在原則に従えば、“わたし”や“あなた”はお互いにお互いの物語を生きざるを得ない。(現実原則ではないです。現在の特徴としての原則。)
ひょっとしたら、社会性の根拠とはこうした部分にあるのかもしれず、それは誰が誰の物語を生きているのか?ということです。

“わたしやあなた”は“わたしやあなた”の物語を生きている。

この現在の原則の中で、わたしたちは実存的な自由を模索したり、構造的な身動きのとれなさに諦念の感覚を感じたりするのだろうな。



・ ・・最近職場で起こった不条理な出来事は、誰が誰の物語を生きているのか?という社会性の根拠に関連する出来事です。現在が混濁しているという事実を無視して事が進められてしまっているから、判断が現在から遊離した観念の世界のものになってしまっている。僕はソーシャルワーカーだし、社会性には敏感でありたいと思うし、ソーシャルワーカー以前に“普通に呼吸する地球の行為者”(平沢氏「HUNTER」より)として、現在から遊離した判断にはやはり警鐘をならす必要があるんです。

(※注意を促すならば、「“わたしやあなた”は“わたしやあなた”の物語を生きている」ということが、正しいこととか、良いこととか、徳のあることとか、そうしたことではないということだ。「人はそう生きるべきだ!」と主張しているのではない。そうではなく、倫理的・道徳的価値観成立以前に、現在にはお互いがお互いの物語を生きざるを得ないという特徴があって、それを無視すると現実味がなくなるということを指摘しているに過ぎない。)