ここにある久遠。

ベンツに「ベンツ」という文字を書いて逮捕された医師がいるそうだ。


おそらく。。。

ベンツに「ベンツ」という文字を書いたとしても、ベンツは自分のものにはならないだろう。

そして。。。

ベンツに「ベンツ」と書いてもベンツは自分のものにならないように、他人に「他人」と書いたからといって他人は決して自分のものにはならない。

まして。
自分の好きな人に「好きな人」を書いてしまったとしたら、それではその人は自分のものにはらないだけではなく、犯罪行為ようなものとして怒られて、後頭部を何度も鈍器のようなもので殴られるであろう。

では。

自分はどうだろうか?

自分に対して「自分」という文字を書いたら、果たして自分は自分のものになるのだろうか?

おそらく、その試みは失敗するだろう。

なぜならば、自分は「自分」という文字やその文字の意味によって規定されているとは言い難いからだ。
自分は「自分」という文字によって名指されることでは所有されない。
自分は常に「自分」という文字による所有からはみ出るような仕方で存在しているからです。

そのことを証明するのは、それほど難しいことではありません。
自分に対して。「自分とはなにか?」という問いを投げかけてみればいいのです。

僕の本名はnanonoidではないけれど、nanonoidを“どこにでもある日本人男性の名前”としてみてください。
nanonoidと名指しただけではnanonoidがどんな人物かわからないし、もしnanonoidと同姓同名の日本人男性がいたとしたらその人との違いを言い当てることができなくなってしまう。
ということは、「自分とはなにか?」という問いに答える為には、自分自身の性質を次々と列挙していくことになるであろう。

nanonoidとは、34歳の独身男性であり、テクノが好きであり、SF小説が好きであり、スマートに乗っていて、宗教家の勧誘をよく受けるが主義や主張や思想の類に対してはそれを解体するような態度を持ち続け、おかしな自己表現を続けてよく周りをドン引きさせることに喜びを感じ・・・以下無限久遠永劫。

こうした規定の仕方を、「内包的規定」といっても「ノエマ的規定」といってもそれほど的外れではないとは思えますが、この規定の最大の肝は最後の一文、「以下無限久遠永劫。」というところです。

いつまでたっても終わりがない。
いや。
終わりがないということができないというのが最大の肝なのです。

なぜならば、人は・・・人と汎化するのが言い過ぎならば少なくとも僕は、「私はこうであったがああもありたい」と、これからの自分の姿を思い描き、それをめがけることができるからだ。
(※福祉関係に携わったことのある方は「ストレングスモデル」も思い浮かべていただきたいと思います。)

・・・少し話が大きくなりました・・・そこまで大きくしなくても、現象レベルで、「人は次の自分のありようをめがけながら生きている」という性質は言い当てることができるだろうと思います。
僕は今、某喫茶店で豆乳ラテを飲んでいるのですが、きっとあと20分後にはお腹が空いて蒙古タンメンを食べに行くでしょう。
そのときの自分は、「豆乳ラテを飲んでいる自分」ではなくて、「決死の覚悟で蒙古タンメンを食べている自分」であるわけです。
その後の僕は、少し公園に行って一息つこうと思うかもしれない。
ちょっと強引かもしれないけれど、日常の中にも「了解しつつ思い描く」という性質が見て取れます。

人には現在の自分自身の姿から少しはみ出して、常に次の自分の姿をめがけるという生成する性質がある以上、それは決して静的な定点のようなありようとは捉えることができません。
もし、「自分とはなにか?」という問いに対して答えようとするのならば、無限に、ナラティブに、自分自身のありようを語り続けることになるでしょう。

さて。

ベンツに「ベンツ」と書いてもベンツは自分のものにはならない。

他人に「他人」と書いても他人は自分のものにはならない。

好きな人に「好きな人」と書いても好きな人は自分のものにはならない。

自分に「自分」と書いても自分は自分のものにはならない。

もし。

自分を自分のものにしたいと思うのならば、常に現在からはみ出て次の在り方をめがけようとする自分の生成する現実を実際に生きてみて、実際にナラティブに体験することが必要なのだと思えます。

生成する自己を生きてみる。

まぁ、そうしたところでベンツが手にはいるとは限りませんがwww(What a Wonderful World!)