僕らを包むテクノロジー。

ほぼ妄想なんで、スルーしてください。。。w





すごいことを発見した!

それは個人と集団についてだ!

コンピューターテクノロジーの発達を見ていると、どうやら僕たちの“底のほうで綱がっている感覚”は、どんどんどんどん増している傾向にあるように思えます。

80年代的なテクノロジーの理解の仕方だと、「テクノロジーは人の個別化を推し進めるもので、人間的な繋がりを分断するものだ」となるでしょう。
いわゆるファミコンとかのテレビゲームの感覚を指摘して、“自分だけの世界を構築するもの”と判断しているのだといえそうです。

しかし、どうやらテクノロジーの進化の方向は、それとはまったく逆にあるみたいだ。

テクノロジーによって、人と人とはより深いレベルで(思い切って表現すると“受動的に綜合されているレベルで”)繋がることができる方向にある。

なんでこんなことが表現できるのかというと、twitterというインターネット上のサービスにあります。

「140文字以内で文章を投稿するもの」というちっぽけなサービスなんですが、実は人間の在り様を解体させるほどのパワーをもっています。

そしてそれは、“時間感覚”に関係あります。

これまでの主流のサービスはウェブ上にログを残すものや、“mixi”や“Glee”などに代表されるSNS(ソーシャルネットワークサービス)のようなものでした。
そうしたサービスの中では、日記を書くことがメインになります。

日記を書くとはどういうことかと考えてみると、そこには“振り返って考えてみる”という特徴があります。
一日にどんなことがあったのか思い返してみて、それを一つの文章にまとめあげるわけだから、それは大幅に現在から離れていることになる。
そして、自分の中でストーリーを構築して表現するわけだから、より個人的な“自分だけの世界”に陥ってしまう可能性があります。

つまり、いままでのサービスは、時間的に過ぎ去ってしまった過去を現在に都合良く再現させることを主な内容にしていたわけです。

これに対して、twitterは少し違っています。

その違いの鍵は、140文字という文字制限にあります。
少ない文字数の中にまとめなければならないわけだから、より現在に近い表現になります。
今流行っている“~なう。”という表現がその事実を端的に表しています。
そして、twitterはこうした自分の現在を、不特定多数の人に配信することが出来ます。
“不特定多数に配信”というのはこれまでのブログやSNSでも同じなのですが、そうしたサービスはコメントしたらコメント仕返さないとならなかったり、主義や主張の対立などから荒らされたり、炎上することがしばしばあります。
しかしtwitterの場合はそれぞれの人の現在が単語カードのように羅列されているだけなので、知りたい現在を任意に選び取ることができます。
簡単にいうと、ぬるい。

任意の現在がつぎつぎと自分の現在に押し寄せてくる感覚・・・これがtwitterのサービスの醍醐味です。
ですから、企業の販促戦略としてのtwitter利用はあんまり意味がないでしょう・・・っていうか無視されると思うw

さて、僕らはこのように、コミュニティ成立以前に起こり得る、“繋がることができる可能性”を手にいれることが出来ました。
グループ成立以前に僕たちは感覚的に繋がることができます。
もし、テクノロジーが健全に発展するのなら、機械を脳に入れちゃって、もっと直接的に現在を共有することができるでしょう。
(もし、僕らの賢者、アーサー・C・クラーク(SF小説家)が生きていたらとても喜んだだろうなぁ。)

僕らは感覚的に繋がっていることができる。
僕らは現在を共有することができる。

しかしそれは、自分の現在が不特定多数の他者のなかに埋もれてしまう可能性を孕んでいます。
そうなってくると、必当然的に“個別化の不全”という問題が主題になってきます。
“私とはなにか?”という問題です。

たぶん僕らは、もっともっと個人について考える必要がある。


・・・もし、テクノロジーが順調に発展すればということだけど・・・。