過去はどのようにして勝ち取られたのか?

おととい。

朝起きて。

ふと。

テレビをつけてみたんです。。。。

・・・僕は昨年テレビを買い換えて、そのテレビは地デジが入るもので、「ああ。いよいよ僕のアパートにも地上はデジタル放送がはいるのか。それはもう綺麗な映像で、実家の裏の道の坂の道を登りきったときに見える、山の中腹にちらちらしている小屋の明かりのように綺麗な映像で、それはもう電波で空を飛んでくるデジタルな映像なわけだから、それはもう電波なのだろう。」と思い、わくわくしていたのだが地デジが入らない。
それはどうやらアンテナがUHFではないようで、映らないものだからだ。

ですから、僕は去年からおとといまで悲嘆にくれて生活をしていたわけなのですが、“おとといまで”と表現したということは、もう悲嘆にくれなくてもいいのです。
人類は救われるのです。
宇宙は救済されるのです。
そして道端で黄昏ているゴキブリは人間に殺されるのです。

おととい朝起きてふとテレビをつけてみると、なんだかいつもより画像の映りが良いのです。
いつもはちらちらがさがさしているのですが、その日は鮮明なのです。
ガソリンスタンドの脇の道を深夜青年がマラソンをしていますが、それが健康的な行動かどうかは僕にはわかりません。
だがしかし、いつもより鮮明なので、「これはもしかしてもしかするのかもしれない。僕の罪は許されるのかもしれない。」と思い、思い切ってチャンネル設定のモードに移行して、チャンネルスキャンをかけてみたのです。
そうすると、「スキャナーに生きがいはない」なんてことはなく、するするとチャンネルはスキャンされて、地デジが見事に映ったのです。

ああ。

よかった。

放送大学の放送も入るようになった。

次は放送を録画できるようにしよう。

そうして、思うさま録画しては、思うさま視聴して、保存したい番組は保存し、保存したくない番組は保存しないのだ。

ああ。

よかった。



OR。



iPadが発売される。

6月には3G対応のiPadも発売される。

iPadが良いかどうかはおいといて、いろんなメーカーからタブレットPCが発売されたらいいなー。

と。

いうのも。

僕は“本連関”に陥るときがあるのです。
ある本のある部分の表現を理解するときには別の本を読まないとならなくって、その本のある部分の表現を理解するためには、さらに別の本を読まなきゃならなくなって、そうしたつながりがどんどんどんどん続いていって、僕は何冊も何冊も本をかばんに入れておかないと気がすまない性質なんです。
・・・もちろん、一回の読書で何冊も読めません。
だがしかし、引っかかったときにそれを解きほぐす本が手元にないとダメなんです。

そうした理由から、僕は何年か前、お気に入りの本をPDA化しててPCの中に入れて、いつでもどこでも見れるようにしようと計画しました。
何冊かスキャンしてみたんですが、ダメです。
なぜなら、そのころ僕の持っていたノートPCのMURAMASAの画面は7インチで小さくて目が痛くなるし、バッテリーの持ちもそんなによくなくって長時間立ち上げてられないから、結局は本を持ち歩くことになるのです。
じゃあ、スキャンしてから文字データにして持ち歩けばいいんだろうけど、読み取りソフトも必ずしも性格に読み取るというわけではなくて、結局は校正して編集せねばならず、時間がかかりすぎるのです。

そうしたわけで、僕は本のスキャン作業をやめていたんですが、持ち歩けてバッテリーの持ちも良いタブレットPCがどんどん発売されれば、こうしたPDA化した本もストレス無く読めるようになる・・・かもしれないw
そうすれば、「スキャナーに生きがいはない」なんてことはなく、人類は救われて、宇宙は平和になって、人のサクリファイスな行為はそれなりに評価されることになるのです。

以上の理由から、いつかタブレットPCを購入して、何冊も本を持ち歩かなくてすむ日がくることを信じて、僕はスキャンを続けるのです。

現在、古本で購入したキルケゴールの著作集をスキャン中w

・・・古本で買って・・・バラして・・・連続でスキャンできるようにすれば・・・手間も時間も省ける・・・かも。