他職種間のやり取りはどうすれば可能になるのか?

専門家がいます。

医者とか看護師とか福祉士とか、それぞれの専門家がいます。

そうした人たちは、専門的な知識を根拠に判断を下します。

でも、個別科学ってのは、それぞれ細分化されているが故に見落としてしまうところもあります。
たとえば、心理専門の人は社会的な要因を見落とすかもしれないし、福祉士は医学的な要因を見落とすかも知れません。
そうなると、なにか判断を下すときには、ただ一つの専門科学的な領域の知識に頼るのではなくて、総合的なものの見方も必要になってきます。

しかし、総合的なものの見方っていうのも厄介なもので、それぞれがそれぞれに依って立っているので、どこにも原因がなくなってしまう可能性があります。
問題が、各専門領域の関係性の中に霧散してしまう可能性があります。

これだと、良いような悪いような、なんだか中途半端な回答になってしまいます。

さらに、他職種がチームを組んで問題を解決しようというときにも、難題があります。
それはそんなに深刻な問題というわけではないのですが、それぞれがそれぞれの領域の専門家であるが故に、他職種の分野についてはなかなか口が出せないという問題です。
もし、他の領域に口を出すのならその知識を持ってからにしなさいよってことになってしまう。

これじゃあ、チームで問題を解決するなんてのは、たんなる理念的なものであって、現実には単なる他職種の総合になってしまって、またしても問題は各専門領域の関係性の中に霧散してしまう可能性があります。


どうすりゃいいんだ?と思うのですが、ここで視点を変えて“そもそもどうなんてんの?”って問うことはできます。

そもそも、“領域”はどういう成り立ちをしているのだろうか?

たぶん、論理学とかでいうところの類と種の関係を思い浮かべればいいのかもしれません。

たとえば「人間」っていうの大きな類ですが、そこに黄色人種とか白人とかそうした区別を与えていけば、「人間」の下に「アメリカ人」とか「日本人」とかいった下位の類が生まれてくるわけです。
で、一番下の最低種としては、「人間であるところのアジア人であるところの日本人であるところの関東に住んでいるところの33歳であるところの男性であるところの独身であるところの彼女がいない人間であるところの・・・」って感じで内包がみたされた私自身がいるわけです。

さて、個別科学の“領域”についても似たようなことがいえると思います。

大きな類である「人間」であるところから始めて、それぞれの内包で満たしていって、最低種としての医学とか看護学とか福祉学とかがあるわけです。

そうしたことであるならば、各専門職は共通の根っこを持っているといえます。

共通の根っこというのは人間学的な視点といえそうです。
人間学的な視点」というと、人間を専門科学に分化してみるのではなくて、知・情・意の総合としてみるような感じです。
(ああ。僕は述語不足だからうまく表現できない)

こうした共通の根から語るのならば他職種で問題を解決する道が見えてきそうです。

僕は福祉士だけど、もし、たとえば看護の領域に口を出したいのなら、看護の知識を頭に詰め込んでから語るということではなくて(それじゃあ、看護師と同じ視点になってしまうからあんまり意味が無い)、まず、福祉士の視点から人間学的な視点に立ち戻って、その視点を媒概念にして看護の領域に訴えるという必要があるのではないでしょうか?


で。

最大の困難は、僕たちは客観科学を学ぶことには慣れているけど、人間学的な視点を学ぶことには慣れていないということです。
そもそも、僕たちはなぜだか、直接的に生きられて感じられている生々しい現実よりも、客観的な現実にありがたみを感じてしまうようです。

では、人間学的な直接的な現実を探るための技法なんですが・・・たぶん、もう廃れちゃってると思います・・・系列といえば現象学の系列になるだろうけど、現象学は哲学の履歴を引きずってるからその表現の仕方が恐ろしく困難なものになってしまっていて、本を読むにも一苦労な状態です。

僕らに必要なのは人間学的な現実を発掘するための臨床的な現象学的態度なんですが、現象学自体ステキに恐ろしく難解になってしまっていて、なんだかとってもややこしい。

・・・どなたか・・・「臨床現象学」みたいな感じで、現象学をやり直してくれないでしょうか?




稚拙な表現で申し訳ないのですが、実は今日研修があって、こうしたことを感じました。