生成は非性。

先日、ドトールで深夜の読書をしていたとき、隣で若者数名のグループが雑談をしていました。

話しの内容を聞くと、どうやら大学生のようです。

そして、彼らの中の一人が、盛んに無意味を批判していました。
「だから、そいつに言ってやったんだよ。それにはどんな意味が有るの?って。意味が無いんじゃあやる必要なんかないじゃないか。」

大学生ということはまだ社会に出ていないということで、もし、これから社会に出るのならば、そのプラグマティックな考え方はとても大切だし、大いに役に立つものだと思います。


だがしかし、僕の頭の中にはステキに無能なアイデアが浮かんだのです。

「意味が無いことには本当に意味が無いのだろうか?むしろ、意味が有るからこそ意味が無いのであり、意味が無いものにこそ意味が有るのではないだろうか?たとえば、僕たちは社会に出て、何が自分にとって、会社にとって、社会にとって有益か?、そうしたことを中心に考える傾向にある。それはそれで大切なことなのだけれど、そこには無駄な“ゆらぎ”のようなものがなくなってしまっている。それは、価値観に対してもいえるのではないのだろうか?倫理観や道徳観や、もろもろの大切な価値観があるけれども、それは発生的な起源を持つものだし、その起源というものは、混濁としていて、意味があるとも無いともいえないような直接的な生々しさのようなものではないのだろうか?意味が有るからこそ意味が無いのであり、意味が無いからこそ意味が有るのであり・・・。この学生はきっともうすぐしたら社会に出るのだろう。そして、そうしたプラグマティックな考え方が成立しているうちは問題ないだろうが、もし、何かのきっかけでその日常性が崩壊してしまったときに、彼はどうするのだろうか?その“ゆらぎ”を取り戻すことが出来るのだろうか。。。」




昨年末、僕は自分のブログを本にしようと頑張っていました。
メインブログであるヤフーブログを、製本サービスを使って、一冊の本にまとめようとしていました。
今までは、ただ単にブログの記事を寄せ集めて製本して印刷するだけのサービスだったのですが、去年あたりから、表紙や序文やあとがきや、記事についても写真の位置や行間など、いろいろと校正することが可能になったのです。
そして、ちょっと割高なサービスだったのですが、昨年末あたりから、基本料金が25%オフになり、“これならば”と思い、校正して本にすることにしたのです。

・・・これは・・・去年の中で一番意味の無い作業なのかもしれない・・・www

誰かが望んでいるわけでもないし、この本を作ったところで何かがどうかなるわけでもないし、完全に自分のためでしかないのです。

もし、この製本に意味が有るのだとしたら、それは意味が無いという意味です。

社会的には何も意味が無いという、“ゆらぎ”としての意味です。

そうしたわけで、僕の年末年始は、望まれない本の校正に時間を割くことになりました。

ブログをつけ始めたのが2007年で、一冊に製本できるページ数が400P。
この中から、本当にどうでもいい記事(たとえば気になったサイトへのリンクとか、twitterレベルのつぶやきとか)は排除して、2007年の5月から12月までをまとめてみて、おおよそ350Pになりました。

そして、今年の1月2日に注文して、先週あたり完成して手元に届きました。

表紙はこんな感じ。。。



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題名は「narratron-1」
ウィリアム・ギブスンの造語で、「自己言及的に自分の物語を延々と語り続ける機械」って感じの意味です。
そして、仁王様が「NICHTIGKEIT!!」叫んでおります。



中身はこんな感じ。。



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ちゃんとそれっぽくなってて満足です。



そして序文。



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序文意味なしwww



そしてあとがき。



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読めやしないwww


とりあえず、二冊作りました。
一冊8000円ほどです。
・・・まあ・・・いいや・・・此の世をドライブするための料金だと思えばたいしたことないやwww
へいちゃらだwww


自分の文章が本になるのはうれしいものですね^^
次は2008年の1月から6月までをまとめたいと思います。