母音が“う”。
あー。
この感覚は理解できる!
っていうか、いつか突っ込んでやろうと思ってたことだ!
この感覚は理解できる!
っていうか、いつか突っ込んでやろうと思ってたことだ!
と。
いうのも。
某マイミク氏から借りて読んでいる「脳と人間」って本のなかの一文です。
この本の306ページ目なんですが、ナース用語の不思議について書いてあって、そこには、看護師は動詞の体言止めを頻発するってあるんです。
これは実は強く感じていました。
たまに看護師の実習生が来るんですが、彼らは学ぶことを“学び”って言うんです。
「多くの“学び”を得たいです」って感じです。
「多くの“学び”を得たいです」って感じです。
まぁ、それはそれで全然問題ないんですが、そもそも学ぶっていうのは動的な体験が基になっている気がします。
その場の出来事を感じて体験して、そして振り返ってみて気づくことができるっていうか、そんな感じです。
だから、“学び”っていうと止まっているような感じがして、実習の現場に落ちているものを拾ってくるような感じがします。
その場の出来事を感じて体験して、そして振り返ってみて気づくことができるっていうか、そんな感じです。
だから、“学び”っていうと止まっているような感じがして、実習の現場に落ちているものを拾ってくるような感じがします。
なんの実習でもそうだと思うんですが、実習の時は目標をたてます。
目標を目指すのはとても大切なことですが、なんだか僕には、目標にとらわれると動的な現実の体験が阻害されるんじゃないかって思えるんです。
目標を目指すのはとても大切なことですが、なんだか僕には、目標にとらわれると動的な現実の体験が阻害されるんじゃないかって思えるんです。
だからってことでもないんですが、実習生とかは目標を達成できた・できないじゃなくって、その場の動的な体験から目標を考えたりすることができれば意味があるんじゃないかなぁって思えます。
で。
も。
そういう話がメインの本じゃないですw