惰性。

僕は、母親の子宮から生まれ出たときの惰性で生きてきているのかもしれない。

その人の寿命が子宮から飛び出した時の速さと勢いで決まってたら嫌だなw

でも、何かを新しく始めるときとかは、初発の勢いみたいなものは結構大切ですよね。
最初の勢いが大きいと、惰性でどこまでも進めたりしますし。

“初発の勢い”っていうと、まるで気合いややる気みたいな感じがしますが、どっちかっていうと、そこから判断を重ねていくための原理って感じがします。

なんていうか、物事を始めるための基準って感じ。

単なる気合いややる気だと、その場限りのカンフル剤にはなるかもしれないけど、その惰性は長続きしないかもしれない。
そうじゃなくって、その都度その都度、判断をするための原理をいかに最初の段階で同定できるのか?ってのが、結構必要になってくるんだろうなぁって思いました。

始めるための前提っていうのか、動機っていうか、動因っていうか・・・なんていえばいいんだろう・・・?

そうしたものがきちんと現実からつかまえられるんなら、結構その惰性も長続きするんじゃないのかなぁ?

“アポステリオリな原理”・・・?・・・って言ったら、まるで自己矛盾してるような表現ですが、そんな感じで、運命論的な最初から決まっている原理ってわけじゃなくって、後付けで、これから何をするのか展望を立てるための原理って感じです。

“アポステリオリな原理”をおき楽につかまえるなら、きっと主義や主張を信じることだろう。
しかも、世の中に既に出来上がっている主義や主張の中で、どれか一つを選び取って、それと自分を同一化することでしょう。
それは、宗教でも科学でもかまいません。
なんでもいいから、自分が信頼をおけそうな世界像を一つ選び取って、それに自分の人生を掛けるんです。
そうすると、きっと生きている充実感や喜びを感じられ、うまくいけば幸せになれるでしょう。

しかし、見逃してはいけないことがある気がします。
僕の中にある“アポステリオリな原理”は、幸福が多い隠すものを見逃してはいけないと告げています。

それは、“思慮深さ”です。

自分で考えて、この世と距離をとることです。

上で見せたやり方は、融合することで成立する幸福感です。
既にある世界像により、自分自身を規定していくやり方です。

もう一つの方法は、そうした世界像を自分で編み出すやり方です。
“アポステリオリな原理”を自分で発見するやり方です。
でも、このやり方は結構難しい。
なぜなら、“アポステリオリな原理”は、独りきりにならないとなかなか出会えないからです。
既に与えられてしまっている、主義や主張や科学や倫理や道徳やルールや規則や社会や文化から距離をおいて、そのことを自分でどんな現実に基づいているのか考えてみることは、自分以外から距離をとることだから、必然的に孤独になる。

で。

普通、人は主義や主張や科学や倫理や道徳やルールや規則や社会や文化を利用しながら生きているものだから、距離をとる理由がどこにもありません。

・・・絶望でもしてみないと、この世と距離をとるための理由がない。

で。

“距離をとる”ってのがキー概念なんですが、これがなかなか難しいです。
単純に僕たちは、“距離をとる”といいながら、そのための基準を、別の主義や主張や科学や倫理や道徳やルールや規則や社会や文化に求めてしまいがちです。
そうなると、ひとつの世界像からは距離が取れるかもしれませんが、もう一つの世界像と融合することとなってしまい、結局同道めぐりでどこからも距離を取れていないことになってしまう。

そうなると、“距離をとる”ためには、自分が今現在、何について考えているのか知ることが必要になります。
つまり、考えるとはどういうことか考えてみるということです。

哲学って言葉は、もう内包的に満たされすぎちゃって、一般的には主義や主張や生き方を作り上げる人たちと思われがちですが、その根っこには“考えるとはどういうことか考えてみる”ってのがあるんじゃないでしょうか?・・・っていうか、そもそも「百の諸学の統一原理を語る知恵ないし道理の学」なわけですし。

そうしたわけで、初発の勢いであるアポステリオリな原理を同定するためには、“考えるとはどういうことか考えてみる”方法を使って、この世と距離をとってみることが必要なんだと思います。

で。

今、僕は、何回目かの“アポステリオリな原理”を再発見するための時期に来ているのかもしれません。

つまり、精神保健という方向性でいいのかどうか?、僕には何ができて何をしたいのか?、何をどう経験して学んでいくか?、こうしたことを再確認して、もう一度初発の勢いを整えたほうがいいのかなぁと感じました。

まぁ・・・そんな感じで・・・す。