結像。

イメージ 1

最近は仕事も年末進行中で、なんだか何かと忙しいです。

仕事が忙しいと、休日は何もしたくないもので、今日の休日は14時まで寝て、ラーメン食って、ドトールいって、その後、車でちょっと行ったところにあるかけ流しの温泉に入りましたw


疲れると、言葉を操ること自体億劫になってきます。
文字一つ一つを紡ぎだすこと自体がハードになってきます。


言語について考えてみると、面白いことが発見できます。

たとえば、世の中にはたくさんの言語があって、その言語が使っている言葉ごとに名指している世界が違ってきます。
何の本に書いてあったか忘れましたが、どこかのある部族は、朝、太陽が地平線から上がるその瞬間の太陽に、神性を司る言葉を与えて、ありがたがっていたと聞きます。
この部族にとって、日中、頭上にある太陽は単なる太陽だけど、地平線から上がる瞬間の太陽は、神性をもつ、ありがたいものなんです。
なので、その瞬間の太陽だけに特別な言葉を与えているそうです。

よく考えると、僕たち日本人も、太陽に対して“御来光”みたいな言葉を投げかけて、日の出を祝っています。

でも、もし、こうした太陽のありがたさを知らない人たちに“御来光”のニュアンスを伝えようとしても、その人たちは、世界がそのように言語的に分節されていないので、その言葉をうまく理解することができないかもしれません。

そのように考えると、言語は、僕たちが生きている生の現実を、表現するための、一つの世界像なのだと言えそうです。
(ちょっと乱暴かもw)

では、言語の手前は何なんでしょうか?
分析哲学とかは、言語を最小単位としているみたいだけど、分析哲学の手前には何があるのでしょうか?
意味の群れ?
最初の多重化?
現象学で言う「現象」?

疲れて陰鬱な雰囲気でいると、文字の手前の「現象」が、情動的な雰囲気に彩られて、うぞうぞうぞうぞ蠢いているのがわかります。


・・・剥き出しの現(いま・ここ)が、現実に露になっている感じ。。。


で、こうした陰鬱な感じでいると、なかなか気分が言語イメージに組みあがりません。
情動的な雰囲気が言語として結像しないんです。

たとえば“思考制止”とかいう表現があるけど、それってひょっとしたらこういうことかもしれません。
自分が体験的に感じている生の現実を、言語を使った世界像としてうまく定立化できない。
だから、周りの人からは落ち込んでいるように見えてしまう。

ということは、自分の身の回りに起こったことを、自分の言葉で語るって言う“ナラティブ・セラピー”ってのは、言語を使って、世界を自分のものとして、再構築していくための作業なのかもしれません。

そして、今、僕は、こうして言語イメージを使ってこの文章を作っているということは、自分が体験的に感じている世界を自分の手元に引き寄せて、意味的な基付けをして世界像を組み上げているということでもあり、それはある意味、“ナラティブ・セラピー”している感覚に近いのかもしれません。

そうしたわけで、勝手にセルフ・ケアもできそうですし、ひとまずビールでも飲んで、床に付くことにします。。。

明日も仕事だしw