デウスエクスマキナ図。

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写真は04年ごろの落書きですw

社会のイメージ図。

ドゥルース、ガダリとかのポストモダンあたりの話を読んでいて、社会ってこんな感じなのかなぁ、と思って落書きしましたw


僕たちの中で掴み取られ、形式化されたルールの群れは、どんどん規範化されて、僕たちの生活を偏執的に定着させるような価値の群れとなっていきます。

規範化された価値の群れは、僕たちの生活世界をどんどんはなれて、形式のみの自動機械のようにうぞうぞと動き回っています。
もはやこの価値の機械がないと社会の仕組みは動かないけれど、価値の機械によって生活世界が決められていくような逆転現象が起こっている。


で、面白かったのは、この自動機械にケチをつけるには“死をかけた抵抗”が必要だ、という表現があったところでした。
たぶん、価値の機械は、それほどまでに強いってことなんでしょう。

・・・ちょっと乱暴に言えば、僕たちは目に見えない背景的な文化に殺される・・・デウスエクスマキナ的な“カルチュアル・キラアズ”の仕組みに従うことを余儀なくされている・・・。


このような世界の見方は確かに必要だし、ちゃんとした礼儀作法をもたないと、少し危険です。

もし、“価値の機械があることで不幸が生まれる”とか、“人間には本質的に幸福を目指す本能的な欲求があるもので、その欲求を妨げる文化的な背景は障害でしかないのだから、偽者の文化は解体させなければならない”とか、単純に“悪い文化を解体させて良い文化を生み出そう”とか、そうした思想的な主義や主張を生みやすいからです。

あの写真のような、構造を取り扱う視点を持つときは、価値の手前で直接的な現実を直視する技法が必要になります。
形式を扱うスキルと意味を観取するスキルをうまく使いながら構造に接近しないと、構造に接近しようとしている自分自身も、その文化とはまた別の“カルチュアル・キラアズ”になってしまう。
・・・まるでダークサイドに落ちていくアニーのように、理念の虜になってしまいます・・・。

例えば、うつ病の人に抗うつ剤だけだして、精神療法をしないでいるのと、ニュアンスとしては似ているかもしれません。
この場合、病気の本質を見ないでうわべだけを見ようとしている。


・・・しかし、僕たちはすでに文化的な背景の中にまみれているので、“価値の手前”を目指そうとすること自体、ある意味彼岸を目指しているのと変わらないのかもしれません。
でも、“文化的な背景がある”ということを知らずにいることと、“文化的な背景がある”ということに自覚的にいることには、大きな違いがあると思います。


肝は、自己意識をもつこと。
把握すること、確認すること、点検すること、凝視すること、見ること、観ること・・・客観的な特権的な立場に身をおくのではなく、すでに自分自身の身に起こっていることを知ることです。
・・・で、最大のポイントは、この様な自己意識を持つことが、かならずしもプラグマティックな結果をもたらさない、というところです。
つまり、ポストモダンのニュアンスで言うと、スキゾ的なゆらぎ性をもたらすことはできるけど、それが直ちに良いこと、正しいこと、幸福なこと、気持ちの良いこと、心地の良いこと、とは限らない、ということです。

ということは、自動機械を取り扱う礼儀作法というのは、ゆらぎ性を保ながら接近するということかもしれません