共依存→離脱。

以前、職場のベテランの同僚が、「アルコール依存症の人がお酒止めたとき離脱症状出るけど、ギャンブル依存とか他者依存なんかも、止めるときは離脱症状出るんだよ。」って教えてくれました。

・・・この話を聞いたとき、“身体的な依存がないのに、離脱なんて出るわけねーじゃん。”って思ってたんですが。。。ある意味出ますねw

ってことを、感覚的に理解できるようなことがありました。

最近、長年連れ立っていた友人と、距離を置いてみることにしました。
ケンカしたからとか仲が悪くなったからとかではなく、共依存的な、マイナスのループに陥っている可能性を感じたからです。
そいつがいることで、僕の中では自分で考えることが阻害されている部分があり、そいつの中では、そいつ自身で考えることを阻害されているような部分があり、互いに直面化すべき課題を回避しているような、そんな悪循環に陥っている感じがしました。
友人関係を続けることが、倫理観や道徳観といった理念的な解釈では追いつかないような、システムとしての不全を引き起こしている可能性があったと感じたのです。

で。

距離を置いてみたら、離脱じゃないけど、そわそわとした落ち着かない気分になって、ちょっとやばかったですw

でも、綜合的な身体は凄いもので、そうした状況になると、まるで恒常性を保つように、別のシステムを開発する方向で動き出すんです。

つまり、別の友人たちと、別の関係性を作り上げようとするんです。

多分それは、僕自身の恣意的な行動というよりも、もうちょっと別のニュアンスだと思います。
・・・多分、心理の立場からは、“無意識的な恒常性”とか、“社会性を求めようとする人間の本能的な行動”とか表現するのかも知れませんが、おそらく“無意識”とか“本能”というニュアンスは、現実経験の生々しさを削ぎ取っちゃう感じがするから、あんまり使いたくないです。。。


で。

ここからは全く個人的な心情的な話しなんですが、僕は善意の押し売りをする人に、友人としての信頼感を感じることが出来ません。
っていうか、予定調和的な善意や、倫理的・道徳的に正しいことを言う人や、幸福を解く人は、一緒にいて居心地が悪くなるから、ちょっと苦手です。。。多分アン・シャーリーも逃げ出すと思うw

そうしたわけで、長年連れだった友人と距離を恣意的に置くということは、決して無思慮な行動ではなく、友人としての尊敬の念を抱いた、実存を讃える行動だと思うんです。

もし、何年か経って、僕を取り囲む意味のシステムが必要とするのなら、全く非因果的だけど必然的に、そいつとのシステムは復活すると思います。

・・・多分“縁”のニュアンスはこうしたことになるんじゃないかなぁと思うのですが、どうだろうか?