総点検。

世界が現象する仕組みを知る方法は、普通の人にとってまるで意味を成しません。

なぜなら、僕たちは、既に現象してしまっている世界しか知らないからです。

例えば、黒色しかない世界を思い浮かべて下さい。

その人は黒色しか知りません。

もし、黒色以外の色を知りたければ、黒と対(ペア)になる別の色がなければならない。
それ以前に、世界に黒色しかなければ、黒色自体がどんな色をしているのか、比べるべき色がないので把握できません。
なので、現象は何かと対(ペア)になることで、現象しているといえます。

しかし、世界という現象は、もう既に成り立ってしまっており、日常平均的な僕たちは、世界に対して対(ペア)になる世界を持ち得ません。
ですから、世界そのものがどういう仕組みで成り立っているかは、問いとしてなかなか成立しえないのです。

(僕も含めて)日常平均的な僕たちに出来ることと言えば、せいぜい、“どんな世界像が幸福か?”とか“どんな世界像が徳か?”とか“どんな世界像が平和的か?”とか“どんな世界像が倫理的か?”とか“どんな世界像が道徳的か?”とか“どんな世界像が客観的に真実の世界か?”といった具合で、既に成り立っている世界に対して価値観を付与したり、価値観を利用したりするくらいです。


しかし、ごく希に、既に成り立ってしまっている世界という現象から引き離されてしまう場面があります。


例えば、精神の病とかで、その人がそれまで経験していた世界が変容してしまい、全く別の世界が現象してしまったときです。
端的に表現すると、幻聴や幻覚体験により、別の世界の現象を余儀なくされてしまったときです。
このように、それまで自分が寄って立っていた基盤が崩れてしまったときは、世界そのものの対(ペア)が成立するので、世界が現象する仕組みを探ろうとする動機は成立します。

もっと簡単にいうと、病気をして、日常から離れちゃったときとかは、“僕は健康なとき、どんな暮らしをしていたのだろうか?”と考えることが出来ます。
この動機は、もっともっと身近な出来事で表現すると、学校を卒業して社会に出るとき、これまでと少し違った日常性を遵守しなければならず、そうしたときに感じる違和感みたいなものです。

つまり、自分の日常的な基盤が揺らぐような危機的な場面は、世界が現象する仕組みを知る機会に成りえるってことです。


で、僕もなんだかピンチだったw
論理学やってたら数学の話しがわらわら出てくるし、数学苦手だし、なんだか頭の中がお祭り騒ぎになってきて、基盤がゆらいでピンチだw
・・・仕事も上手くいかないし・・・w

世界がゆらいでる感じ。

で、“俺って数学何処まで理解できてんのかなぁ?”って思って、現在算数から振り返り中です。

これもある意味内観療法みたいなものかもしれない。

神経症の人が確認行為が多かったり、知的の人がこだわりが強かったりするのと似ているかも知れない。

で、今のところ問題なく計算できてるんで、とりあえず小学生レベルは大丈夫みたいですw

今、やっと文字式です。

ホワイトヘッドまでもう一歩www