血が愛情。

確か、何年か前、NHKの番組で、胎児の特集をしていました。


母親の胎内で胎児は、母親から赤血球を吹き付けられて新鮮な酸素を得ているようです。

で。

この赤血球が胎児に向かって吹き付けられている様子を説明している時のナレーションの言葉が絶妙だったんだです。

 
そのナレーションでは、「まるで母親からの愛情のように赤血球が吹き付けられています」って表現がされていた。


この表現って、巧みじゃないでしょうか?


血液の成分である目に見えない”赤血球”と、抽象的な理念の一つである”愛情”とが、このナレーションをつくった人の中ではイコールでつながっています。

そこに巧みさを感じました。

“愛情”っていう言葉は普通、誰かのことを思ってする行為のことを指していると思うんです。
“愛情がある”っていうと、誰かをいつくしむ気持ちを実際に表現していくことを指しています。
だけど、ここで使われている“愛情”はそんな生半可な意味じゃないんです。
“赤血球”って、自分の意識の力でコントロールできるものじゃないよね?
「ここは赤血球を出した方が良いから、出すぞ!」っていって、出せるようなものじゃないわけです。

“赤血球”って、意識に対して恣意的じゃない訳です。

わけわかんないけど赤血球は胎児に吹き付けられるわけで、それは意識の恣意性(その時々の勝手な思いつきで意識的に判断するって感じ)を乗り越えられているってことです。

で。

“愛情”ってのも、普通はいつくしむ気持ちを意識的に表現することを指すけど、その根っこにある”いつくしむ気持ち”ってのは、決して意識的に作り出されてくるものとはいえません。

ある人にとってはあることはとてもいつくしむべきことかもしれないけど、ある人にとっては、正直どうでもいいことだったりする。
つまり、その人その人のあり方によって、“いつくしむ気持ち”ってのは出てきたり出てこなかったりするわけです。

“愛情”の根っこに何があるかって掘り下げていくと、そこにも意識に対して恣意的とはいえない、わけのわからなさが見て取れる。
“赤血球”=“愛情”ってのは、決して意識で自由に操ることのできない、“愛”の本質を言い当ててたのかも知れません。

で、血と愛情の二つに共通する本質ってのは、“わけのわかんなさ性”になります。