言語がリニア。

だるくってだるくって、仕事場を歩いて移動するのが億劫で、“あぁ。なんでこんな歩くという罰みたいな辛さを受けなければならないのだろうか。小学校5年歳の頃、ファミコンの「つっぱり大相撲」を半年以上も借りていて、返すのを忘れていたからだろうか?もし、その出来事がこのだるさの原因ならば、僕は今すぐにでも、「つっぱり大相撲」の罪を償いたいのだが、果たして、どのような行為をすれば「つっぱり大相撲」の罪は解消されるのだろうか?今現在、お相撲さんの中で悩んでいるお相撲さんと言えば、やっぱり朝青龍だろうし、彼の悩みを解消できるのならば、僕の罪も償われるのかもしれないし、もし、朝青龍が「つっぱり大相撲」のことを許してくれるのならば、僕はきっと、明日仕事場で無理難題を言われたとしても、大きなお相撲さんの許しがあるのなら、きっと、仕事場を歩いて移動するのは億劫だと感じないだろう。だがしかし、朝青龍の悩みを解消することが出来ず、朝青龍の悩みを解消できないのならば、きっと僕は、半年以上も「つっぱり大相撲」を借りていた罪は許されることはなく、僕は既知限界的な時間の中、そもそも、なぜ「つっぱり大相撲」を借りたのか、悔やみ続けるであろう。だがしかし、確かに、「つっぱり大相撲」は数あるファミコンソフトの中でも、面白い部類に入ることは確かだ。僕はあの単純なコントローラーで様々な力士を操り、次々と決まり手を決めていったではないか。確かに、コンピューターの操る力士に負けたことはあったけれど、ゲームはゲームなので、ある程度のパターンと、連射が出来るコントローラーがあれば次々と勝てたものだし、それなりの快感は味わえたものだ。。。しかし、その快感には、半年以上借りっぱなしであったという罪悪感もあったわけで、いや、しかし、その罪悪感があったからこそ、僕は力士に勝った時の快感を感じることが出来たのかもしれない。。。あの日、銭湯の風呂の中で放尿してしまった子供は、確かに罪悪感を感じていたようであったが、それと同時に高揚したしゃべり方をしていたことも確かだ。そうならば、僕が半年以上も借りてしまったという罪悪感は、力士勝ったときの快楽を高めているのかもしれない。あぁ。そういえば、確かに仕事場で移動しているときに感じるけだるさと脱力感は、どうしようもなく嫌なものだが、その時僕の身体の周辺に吹いてきた一陣の風は、それ以前に僕の身体の周囲にまとわりついていた空気の温度に比べ、幾分かひんやりとしたものであり、その心地よさは少しだけ僕の歩く速度あげてくれたはずだ。だからこそ、僕は仕事場を移動することができ、移動した上で次の仕事をすることができ、今こうして文章を打ちながら、今日自分の身に起こった出来事を振り返ることが出来るのだ。そんな風に思うと、僕はけだるさと「つっぱり大相撲」に感謝をしなければならない。そして、一陣の風と放尿した子供は、すがすがしさと快楽に身を任せながらも、僕の過去の地平の中に沈殿していくので、僕に言えることは“おはようございます・こんにちは・こんばんわ・ごきげんよう”という、相手の気分を伺うような挨拶言葉くらいになります。そうしたわけで、じょじょにすがすがしさを感じさせる透明な季節に移行していくわけだけれども、それとともに自分自身の持つ時間・空間軸が味わい深く変容していくのならば、それはそれで喜ばしいことなのではないのだろうか?それにしても、道ばたを歩いている猫や犬を見かけたときには思わず「あ・猫だ。(もしくは「あ。犬だ。」)」と発語してしまうのはなぜだろうか?この謎を解くことを、「つっぱり大相撲」の陽気なお相撲さんや、現実世界の悩める朝青龍は許してくれるだろうか?もし、その謎を解くことが許されるのなら、きっと僕は、猫発語の意味の繋がりを追い続けるだろう。もしそうしたことが出来るのならば、きっと仕事場で歩くことがだるくたって、この二本の足で、どこまでだった歩いていけるのだ。あぁ。よかった。”と、思いましたが、よく考えたら思わなくても良かったので、疲れたのでもう寝ますw

なんだか、言語がリニアw

明日、涼しければいいなぁ^^