PARADE。

愛。

だ。




・・・。




朝までに門をくぐり抜けて。

愛。

だ。





だ。

が。。

しかし。。。




はたと気がつかされる瞬間があります。

自分の持っている意味の履歴が、まったくもって非因果的に、現在に集まってきてしまう瞬間があります。

例のアレだ。

ミャンマーの代替錬金術的な表現を使うと、ロタティオン的な瞬間だ。
(平沢氏の『賢者のプロペラ』より)
遥かなる過去と遥かなる明日が、全部“いま・ここ”に集まってくる、例のあの感じだ。


で。


それは言葉です。

ある男性が語った、「長男は愛されることには慣れているけど、愛することには慣れていない」という言葉です。


この表現に、なんだか僕の履歴が勝手に集まってきました。


というのも、僕は恋愛下手だwww

異性を好きになるけれども、うまくお付き合いが出来ませんw
大抵、どんな風に好きだっていう思いを表現したらいいのかわからず、ぽしゃっちゃうww
自己表現の方法を模索しているうちに、ありがたい友人たちの視線にさらされ、ああでもないこうでもないとありがたいアドバイスを受けることになり、そうこうしているうちに、なんだかよくわからなくなってぽしゃっちゃうwww

・・・20代の始めの頃は、竹田青嗣氏の現象学的欲望論が好きで、よく読みました。。。
あの頃は哲学史とかもよくわかんなくて(今でもよくわかんないところは多いけど)、とりあえず面白そうなのを読んでいた感じなんですが、竹田氏の話は恋愛経験時の至高体験みたいなのを書いてあって、なるほどなぁって思いました。
「いろんな価値評価があって、なにが倫理的で道徳的かはそれぞれのパースペクティブによるものだけれど、人生の一回性にかけて、自分の生を肯定してくれるような経験は大切なわけで・・・」・・・みたいな感じの話し・・・のはず・・・だけれども・・・なんだかニーチェっぽいなぁ・・・っていうか、竹田氏の『ニーチェ入門』とかとごっちゃになってるかも・・・まぁ・・・そんな感じ。

で。

も。

たぶん、僕にはそこまでの恋愛経験がない。
その人のお声を聞くだけで失神してしまうような怒涛の恋愛なんて、したことがないのです。

っていうか、無思慮に愛とかを語る人は大嫌いで、あんまり一緒にいて欲しくない。
それは、愛を語る宗教家に橋桁に連れて行かれて、なんだか趣味の悪い道徳的な話をとくとくとされて嫌な気分になったっていう、僕の個人的な体験が元になってりるのかもしれませんが、僕はそうした倫理的・道徳的な話しを笑顔で語りかけてくる人たちに対して警戒するようになってしまいました。
ですので、無思慮に愛を語る笑顔の隣人たちとは一緒にいたくない。


それはそれとして。。。


・・・去年あたりは、僕はつくづく怒涛の恋愛経験はないなぁって思って、「僕は人を愛したことがないんじゃないか?」って思って、飲み会の席のたびに、周りに「あなたは人を愛したことがありますか?」って聞いて回っていました・・・なんか、単にウザいやつだなwww


で。

そんなんやってるうちに。

先日例の言葉に行きつきました。

「長男は愛されることには慣れているけど、愛することには慣れていない」

・・・なるほどなぁ・・・そういうことかもしれないなぁ・・・。

思えば僕は手のかかる子だった・・・。
アトピーあるから家族からは保護される立場でした。
あれやこれやと面倒をみられるのです。
たぶん、面倒をみられるのには慣れている。
でも、面倒をみられると、自分のもっている可能性が次々と奪い取られてしまいます。
自分で悩んで、自分で何をしたいのかを模索するという可能性がどんどん奪い取られてしまいます。
だから、なんとかして保護の視線から逃走しないとならないのです。
今現在は実家から離れて単身生活を続けているのですが、それっていうのも、保護の視線から逃れるための自己表現なのかもしれません。

でもそれは、巧みな自己表現とはいえそうにありません。
単に、保護の視線との直面化・対決を回避しているだけなのかもしれません。


さて。

どうするか?


ここで価値観の取り扱い方に敏感になる必要があります。
っていうのも、注意しないと、簡単に“良い-悪い”の価値観がのさばってくるからです。
“愛されるのに慣れている”=“悪い”、“愛するのに慣れている”=“良い”、みたいな感じで、これまでの自分を断罪して、別の自分をめがけるような感じです。
それはそれで全然問題ないんですが、それはなんか、構造を無視してしまっているような気がします。
全部主体の責任に還元して判断してしまうのは、その人を取り囲んでいる構造を無視してしまうようで、フェアじゃない。
それよりも、善悪で決めてし物事を決めるのはストレスがたまるから嫌だ。

・・・それは、“良い-悪い”ってわけじゃなくって、単に慣れていないだけなんです・・・愛するってことを自己表現するためのスキルがあまり鍛えられていないだけなのです。。。


ああ。
これなら大丈夫だ。
なんだか希望のある話になってきたぞ。
例の「無思慮に愛を語る笑顔の隣人」の趣味の悪い道徳話しに陥らなくて済みそうだ^^


そう。
それは慣れていないだけだから、鍛えれば身につけられるかもしれないのです。


僕には今、「逃走のスキル」はある。
しかし、「愛するスキル」が鈍っている。
ってことは、愛する練習をする必要があります。

で。

は。

そもそも愛っつーのはどう捉えればいいの?

ここでも「無思慮に愛を語る笑顔の隣人」に陥らないようにしないとならない。

たぶん、『脳と人間』のなかで使われているような、「リビドー(性欲じゃなくて、くっついたり吸収したり同化したりする性質)」や「アグレッション」や、ブーバーみたいな「成人期の<我-汝>関係(人格交換的な場面っつーのかそんな感じ)」とかいった述語がキーになりそうです。
しかも、僕たちを規定している価値評価が実体化してしまわないように、価値観を一時停止させることを心がけて、現実経験に引き戻してから話しを進める態度をとっておかないと、簡単に理念に陥る気がします。

理念に陥ると「千の主義と千の主張があるだけ」になって、結局は相対的な話になって、そうなるとつまらない。
そうした主義や主張は芸がないし不粋だからなるべく避けたいなぁ。

芸がない。。。
不粋。。。


あ。

「逃走のスキル」が発動したw




まぁ・・・いいや・・・なんか眠いしw

そうしたわけで、少年探偵になれそうな気分になってきたんで、そろそろ寝ます。。。


※「PARADE」はソフバの曲^^ 愛だ。