自己紹介:class3。 “孤高の嗚咽。”

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脳内師匠より、毒電波で架空の伝言がありましたw

内容は以下の通り。




“「考える人」は孤独だ”と人はいう。


主義者や思想家を蹴散らして世界の在り様に接近する者は、どうしても因果の連関から距離をとらざるを得ないようだ。

この孤独は、実存を知るものも経験することができる。

振り返って自分のありようを知り、“さて、世界はこのように在るが、私は何をめがけようか?”とつぶやく者は、どうしようもない孤独感、世界の無意味さとそれを引き受けつつ生きざるを得ない責任感に目眩を受け嘔吐する。

しかし、この孤独感と世界に対する嘆きは、讃えるべきものだ。

世界が単に認識主観により意味付与された価値観の総体であることを見抜き、私は世界に意味を与える主体的存在であることを知ることができたものだけが知ることができる、恍惚的嘔吐感だからである。

再度点検をするが、この恍惚的嘔吐感は、主義者や思想家のように、世界を自分で歪めて認識しているものには絶対に接近することができない孤立感である。



世界を覆い隠してはならない。
世界像を信仰すると盲目になる。
思考が停止してしまう・・・。



かくして、孤独の丘に立つ「考える人」たちは、世界が理念に覆われている姿を見て、ただただ嗚咽する。
 
彼らは思う。
“何故何も聞かず、何も見ないのか?”と。

世界観や価値観を信仰して、自分で考えることをやめた者たちを見て、哀れむ。
「私は徳もなく、知もなく、無能な愚か者かもしれないが、少なくとも自分で考えることができる。振り返って世界の姿を知ろうと努力し、自分の姿を知ろうと努力する。だが、彼らは日常性の中に埋もれて、何も見えなくなってしまっているのではないか?これでは生きる屍だ。」


分別のある「考える人」は、主義者にはならない。
しかし、真実に接近しつつ、理念の罠に陥る「考える人」たちは大勢いる。
理念の罠に陥ると、他者の生き方に干渉をしだすのだ。
他人の生き方を変えようとする。
確かに「考える人」たちは、世界に悲嘆し哀れむのだが、世界が隠されていること自体、じつはまたひとつの可能的な一様態なのである。
この可能的な一様態を無理やり別の様態に変更しようとすると、その「考える人」はもはや「考える人」とは言わず、主義者であり思想家である。



罠に落ちてはならない・・・。



世界には、“そのようなものでしかなくそのようなものでしかない”という真実の姿があり、人には、“そのようなものであるがこのようでもありたい”という真実の姿があり、この真実の姿は日常性により覆い隠されている。
そしてまた、真実が日常性により隠されるということ自体、それもまた世界の可能的な姿のひとつなのである。


世界はこのように混沌としており、私は小高い丘の上から悲嘆にくれて周りを眺めている。
すると、ふと霧が晴れて、遠い彼方に私と同じように小高い丘の上で悲嘆にくれている者に出会うときがある。
世界の真実の姿に目眩を受け、回りが盲目になっていることに嘆いている者に出会うときがある。
こうした人に出会ったときは、このうえない喜びと安堵感と力強さを感じることができ、感銘を受け勇気を与えられる。
私は“お互いに孤独だが、頑張って生きていこう”と思うことができる。
そして、分別のある「考える人」は、彼の孤高を称えて、また別の道を歩き出し、恍惚的嘔吐感の中へと身を潜める・・・。


できることなら、世界像に視界を遮られないように・・・概念に惑わされないように・・・。




以上です。
が。
全て脳内師匠の戯れ言なので、僕は責任を持ちませんw