履歴の目-3。

僕は仕事柄、疲れた人に良く会います。

疲れた人の多くは、実体化した抽象的な観念に苦しめられています。
たとえば、仕事をがんばり過ぎちゃう人とかのよく言う台詞は、「働いて給料を稼いで家族を養うことは社会的にこなさなければならない義務だから、働かないとならないんです。」って感じです。
でも、現実として、その人は病気になって家族に迷惑をかけたりします。
社会的な義務とは自分の現実にとってどういう意味を持つのか、悟性を使って考えることが抜け落ちています。


たとえば家族間の愛情について。
ある夫婦は、夫の浮気に悩んでいました。
妻は、「私は夫のことを心の底から愛しており、他の女に挽かれるなんて許せない。」と言います。
社会的な美徳からいうと、確かにその通りだといえますが、現実はその通りではありません。
もっと混濁しています。
他の女に挽かれることもあるだろうし、もっと泥臭いものです。
しかし、抽象的な美徳という観念が実体化しているため、その人は生の現実を表現できません。
表現できない生の現実は様々な身体症状になって現れます。
抽象的な美徳が覆い隠している生の現実は何なのか、悟性を使って考えることが抜け落ちています。


ここで、もう少し価値観の使い方に敏感になる必要があります。

それは、“悟性を使って現実から距離を取っている人を本来的な人”、“悟性を使わず実体化した観念にねじ曲げられている人を非本来的な人”と、しないということです。
ここで、“ほんと”ー“うそ”の価値評価を導入してしまうと、この反省自体一つの思想や主義と変わらなくなってしまう。
そうではなく、現実の一様態として、悟性が薄くなっている人や観念が実体化してしまっている人がいるという、ただそれだけのことです。


人には抽象的な観念を実体化させてしまうという傾向性があり、悟性を使って混濁した現実から距離を取ることもできる、これがこの反省が教えてくれることです。