履歴の目-2。

この反省は、視覚的な認識の現実感は履歴の確信に委ねられているということですが、僕たちはもっと抽象的な世界を持っています。

そのひとつが、ルールの世界です。


例えば信号機のルールをあげてみます。

赤信号は止まれで青信号は進めです。
僕たち人間には、昆虫の走光性のように、色を見たら動き出すなんて習性はないので、このルールは後付けで作られたものだといえます。
そこには、“道路には車が走っており、不用意に渡ろうとすると車にひかれて死んでしまうの何とかしよう。”という直接的な現実があります。
こうした直接的な現実の元、抽象的なルールを作り上げ(この場合は色に意味を付与することで)、その抽象的なルールを確信しながら僕たちは日常生活を行っています。


ここで注意が必要です。

こうした抽象的なルールは簡単に実体化しうる、ということです。
タバコの箱の表面を見ているときに、裏面は直接的な現実には到来していないにも関わらず、僕たちはその記憶に確信を持ち、その同一性に疑いを持たないことと同じように、抽象的なルールも実体化するときがあります。

たとえば、何百メートル先も見渡せる広い道路があるとします。
そして、この道路には信号機が設置してあります。
何百メートルも見渡すことができるにも関わらず、赤信号だからといってこの道を渡らずにいる人がいたら、その人は直接的な現実を生きているといえるでしょうか?
むしろ、履歴からの視線(信号機のルール)に生の現実(車は走っていない)が規定されているとはいえないでしょうか?


ここで必要になるのは“考える”ことです。

伝統的な哲学の言葉を借りると、悟性機能が必要になります。
悟性機能は現実経験をカテゴライズするような機能であり、もはやこの言葉自体様々な意味付与にさらされているので使いにくい言葉なんですが、ここでは悟性という表現を“混濁している現実経験を分断して(距離をとって)考えてみる”という程度の意味として使ってみます。(分断する機能って感じw)

見渡しの良い道路の信号機の例を挙げると、信号機のルールから距離をとって、その現実には何があるか、考えて探ってみなければならなかった。
つまり、この現実経験の中に“道路には車が走っており、不用意に渡ろうとすると車にひかれて死んでしまうの何とかしよう。”という生の現実が潜んでいるか考えてみることが必要であり、そうした生の現実が見あたらない場合は赤信号のルールを実体化させてはならないのです。
にもかかわらず信号機のルールを実体化させてしまうなら、それは誤謬の一つだといえます。

信号機のルールの例は単純な例なので、“そんなふうに抽象的なルールが実体化することはない”と感じるかもしれませんが、他の抽象的な世界、例えば倫理、道徳、美徳、善意、日常性、常識性、習慣性、といった抽象的な世界の中では、そうしたものが実体化してしまい、生の現実をねじ曲げてしまう場面がよくあります。