履歴の目-4。

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さて、こうしたことから、“悟性って大切だなー。論理学とかちゃんとやんないといけないなー。”って思って日々過ごしていたんですが、そんな中、送別会がありました。
職場の都合で遠方に転勤になる人がいて、まぁ、出世祝いみたいな感じで飲み会をしました。


送別会の場所は、都内の某モンゴル系居酒屋です。

ビルのワンフロアをぶち抜いて、モンゴルのゲルが建ててあり、敷居もないその中で、みんなでわいわい飲むって感じのとこです。
(飲みほ・食べほで4,500円でなかなかお得^^)
で、そこにはマスターがいて、いろいろ面白いことをして盛り上げてくれますw
ウォッカ片手に各テーブルを周り、それぞれの人に飲ませ、“このテーブルは~~という人たちの集まりです。よろしく~。”みたいな感じで、盛り上げていきますw

悟性なんか関係ないような心地よい一体感が生まれていい感じでしたw


で、そうしたなか、歌が始まりました。

馬頭琴の奏者の伴奏に合わせて、モンゴルの娘が歌い出します。
抑揚の付け方とか声の震わせ方とか、特有のものがあり、モンゴルっぽいんです。
つまり、この娘さんは癒合しているんです。
自らの歌声を規定しているモンゴルの文化と癒合しているんです。
それは馬頭琴の奏者も同じです。
行動の基盤になるような自らの文化と一体化して表現をしているんです。


ここで、ふと思いました。

それは、もしここで僕の文化的な背景を紹介するような歌を歌って下さいと言われたら、果たして僕は何を歌うのか?ということです。
“ヒット曲を歌っても日本の文化って訳には行かないし、かといって演歌ってのもなんか変だし、ムード歌謡って手もあるけど、それじゃ一部の年代のおっちゃんおばちゃんにしかうけないだろうし。。。君が代?・・・う~ん。。。なんか違うよなぁw”
って感じで、ひょっとしたら、僕は僕を規定している癒合すべき文化ってのが少ないんじゃないのか?って思いました。
確かに日本には文化があるけど、旨く表現できないっていうのか、そんな感じです。


ある人は、実体化した観念と癒合してしまい苦しんでおり、ある人は悟性を鍛えて現実から距離を取ろうとしている。
そして、ここには心地良い文化的な癒合の中で自己表現をしているモンゴルの娘さんがいます。


いろんな人がいるけれど、そこには、履歴からの視線と折り合いをつけながら生きようとしている人の、それぞれの姿があります。



そうしたわけで、生の現実にはただ僕を見つめる目があります。

その目は履歴からの視線です。

ただ履歴からの不愉快な視線が、今の僕を規定したり、行動に駆り立てたりしている。

ただそれだけ。