シン・ゴジラの感想・その5!

シン・ゴジラは実存映画の系列だと思うんだ。

でもね、シン・ゴジラの映画自体が実存的な人間の本質を描き出してる映画ってわけじゃない。そうじゃなくって、あの映画は、あの映画を観ている観客自身に現実そのものを突きつけて、観客に実存的な領域に引き戻されたような感覚を起こさせてくれるから、実存映画の系列になると思うんだ。

“実存”って言葉自体、微妙に手垢が付いていて使いにくいから、この文章の中ではこんなふうに定義しておこう。「なんの後ろ盾もなくこの世界に投げ入れられてしまって、その偶然的な現実を了解しつつ生きていく」って感じ。概念化して表示すると「被投的な現実を了解しつつ自分の在り方を投企する」っていうのかなぁ。自分自身を支えている物語を排除して、直接的な現実を眺めたときに感じられる、“なんの意味もなくこの世界に投げ入れられてしまっている”っていうあの不気味な感覚のこと。

もし、シン・ゴジラの映画自体が実存映画だったなら、映画の中の登場人物たちがどうやってこの意味のない現実を了解していくのかっていう、その了解の作業が描かれるんだろうな。その了解の仕方は人それぞれだから、登場人物たちがその人その人の人生においての物語を見いだして、その物語に支えられては先に進むっていうのかな、そういうのがあってしかるべきだと思うんだ(アキ・カウリスマキの映画とかを念頭においてます)。でも、この映画のすごいところは、そうした了解するための物語がぜんぜんないところなんだ。

映画の後半には確かに物語があるけど、あれは空想特撮物語であって、被投的な現実を了解する為の物語ってわけじゃないだろう。

だから、この映画を観てしまった観客たちは、突きつけられたら無慈悲な現実をうまく了解して世界を意味のあるものにするために、自分たちで様々な物語を思い描こうとするんだよ。まぁ、いろんなレビューが溢れてるし、この映画はなにかを話したくなるような映画だってこと。そうした意味で、観客の実存感を触発するという意味で、シン・ゴジラは実存映画の系列に入ると言えるのではないかなぁ。

創造的な人たちはシン・ゴジラをみていろいろな物語を思い描こうとするだろうな。でも、誰もがそのように創造的とは限らないから、おおむね政治映画、災害映画と理解されて終わるのだろうなぁ。

でも、政治映画、災害映画に押し留めておいたほうが安全なのかもしれない。被投的な現実なんて暴かずに、理解の範囲内に押し留めておいたほうがいいのかも。

荒ぶる神は起こさないほうがいいんだ。