シン・ゴジラとか価値体系の崩壊とか再構築とかなんかいろいろ(シン・ゴジラの感想・その4!)。

社会的な視線がその人の在り方を規定してくるっつーのはごくごく当たり前のことで、まぁ、そういう視線と仲良くお付き合いしていくってことが立派な社会人ってところなんだろうな・・・つまんないけどw

で、社会的な視線っつーのには、やっぱり異他的な不気味さってのが付きまとっていたりする。どんなときにその不気味さを感じるかっていうと、自分の預かり知らないところで、ほぼ自動的にこの視線が動き出してしまい、その視線が自分の在り方を規定しようと襲いかかってくるときだ。そして、その投げかけられた視線自体が、果たして自分の在り方をうまく言い当てているものなのかどうかよくわからないようなものであると、その不気味さといったらたまらないものがある。

・・・ああそうか・・・ここのところ感じている違和感はこうしたことなのかもしれないな・・・。

いやあ。よく考えたらこんなことの繰り返しだな。なんとなく違和感を意識して、それに抗いつつ自分の中で価値体系を作り上げて、そんでまた違和感を感じて価値体系が揺らいで、崩壊して、そんでまた価値体系が再構築されていく。。。

あー。自分の在り方自体、スクラップ&ビルドってことじゃないか。ああそうか。そういうことか。

なるほどなー。この前9回目のシン・ゴジラを観ながら「僕は何でこんなすっかすかで中身のない無味乾燥な映画を観て心がぞわぞわしてるんだろう」って思ったんだけど、それは、価値が壊れて作られて成長していく、あの期待感に満ちた不安感を追体験できるからなのかもしれないなぁ。

で。こんなふうに心がぞわぞわしちゃうってことは、僕も価値体系を編み変える時期にきているのかもしれない。もう四十だし。