映画『チャッピー』の感想。

※ネタバレあり。

いやあ、この映画の奇妙なところはね、知能と意識がごっちゃになってるってところなんだ。人工知能ということで、知的能力を人工的に作り出そうってことなら納得がいく。でもね、なんだかこの映画に出てくる科学者は、パソコンでいろいろやって意識を作っちゃってるんだ。意識って、パソコン上でできるものなのかな?知能なら、なんとなくパソコン上でもできるんじゃないかなって思える。論理的な判断の形式と、その形式を満たすための内容としてのデータベースを多く持っていれば、こちらの問いかけに対して答えたり判断をしたり、独創的(とみえる)推論を展開させることもできるだろう。でも、科学者がパソコンの上で作ったのは意識なんだ。意識ってことは、「自己意識」って言葉で表現されるように、何かに気付いている状態って言えるよね。体の機能は問題なくても、意識がないと自分の思い通りに動かすことはできないわけだし。どうすれば何かに気付けるかっていえば、前提として、時間化と空間化の能力が動いていないとならない。目の前に物があるとして、その物がただ一瞬あるだけでなくて、同一のものとしてみるには、目の前の者を保持しておく必要がある。そして、保持したものを未来に投げかけてやらないと、目の前にあるものがこれからも同じものであると予測することもできないだろう。そして、このように保持したり未来に投げかけることが動き出して、だんだんと時間化が進んで、客観時間も成立していくことだろう。空間化が成立するには、運動感覚がないとうまくないだろうな。単に目が見えるだけでなくて、“ここ”と“そこ”の違いを理解するためには、ここからそこに動いてこことそこの違いを把握することができないとならない。もちろんそこには今とさっきとこれからを把握する時間化の能力が関わっているだろう。

もちろん、僕の反省が乱暴で追いついていないことは重々承知です。理系じゃないし、AIの専門家じゃないし。心理系の人間なんで、できるのはあくまで見よう見まねの意識分析くらい。ただ言いたいのは、人間と同じ意識が成立して、人間と同じように世界が現象するのであれば、人間と同じ身体と眼耳鼻舌身(仏教でいう“五根”)的な感覚機能は必要ではないかってとこ。少なくとも身(触れるっていう感覚)がないとうまくないんじゃないのかなぁ・・・。単に知能であるなら問題はないだろうけど、人と同じ意識が成立するのであればこうした反省を通しておかないと理が通らない。でも、ひょっとしたら身体なんて関係なくて、パソコン上でも意識ができるものなのかもしれない。それならそれで、パソコン上で意識ができる仕組みを強引にでも表現してくれないと真実味がないよ。あれじゃまるで魔術だ。

そして、次の奇妙な点は、このパソコンで作った意識が、汎用の戦闘ロボットに乗っけられるってところだ。これまで述べたように、意識があるには時間化・空間化の能力が動いている必要がある。そのためには身体があることが大切だ。見る、聞く、味わう、においをかぐ、触れる、ってのが動いていないと、人間と同じような意識が芽生えるかどうか疑問だ。仮に意識が芽生えたとしても、人間と同じ世界像が展開されていくかも疑問だ。でも、この映画の中では、こうした身体の機能が備わっているかどうかも定かでない、汎用の戦闘ロボットに意識を乗っけられちゃうんだ。意識が乗っけられて、人と同じ世界像が展開されだしたってことを認めるなら、少なくともこの汎用ロボットには、人間と同じような身体の機能が備わっているってことになる。戦闘で消耗していくロボットにそんな機能を備えることがそもそも必要だったの?・・・。

このように、この映画は、意識についての反省が中途半端(っていうか反省は全くなく、そこは魔術的)なまま話は進んでいくんだけど、これはまぁ、映画だし、おとぎ話だから大目に見るとしよう。だがしかし、次に奇妙なのは、登場人物たちの行動の動機だ。主役の科学者は自分の発明が認められて、そのプロジェクトが軌道に乗ってきている状態だ。科学者の性として、自分の発明を実際に現実化したいというのはよくわかる。廃棄になったロボットを奪ってでも、作った意識をロボットに移したいというのもその通りだろう。だがしかし、なんでギャングに預けたままなの?もし、ギャングに拘束されたままなら、ギャングの下でチャッピーを育てなきゃならないのもよくわかる。でも、いったん家に帰ってるじゃん!もちろん、インストールキーをもちだしちゃったのは違反だし、会社から大目玉をくらうだろう。でも、チャッピーがギャングに育てられて犯罪をしちゃったら、それこそ会社にとっても大損害だし、主役の科学者も身の破滅だろう。だから、いったん家に帰った時点で、罪を認めて社長に報告するっていう手もあったんじゃないの?少なくても合理性を重視するであろう科学者ならば、なんでそうした方法を考えなかったんだ?もし、「会社に報告して事態を収拾するメリット・デメリット」「会社に報告せずに、ギャングの下でチャッピーを育てるメリット・デメリット」を考察して天秤に乗せる葛藤みたいなものが描かれていたのなら、僕も科学者に感情移入できたかもしれない。でもそんな描写はなかったから、科学者が奇妙に思えて仕方なかった。

そして、もう一人の奇妙な人物は、科学者の同僚の元軍人だ。自分のプロジェクトを実現させたいがために科学者の違反行為を利用したってのはよくわかる。そして、社長にGoをもらったのは本当によかったねって言いたい。でもね、そのあとだよ。自分の発明を使って、人殺しをしてんじゃん。楽しんでるし。なんで????こんな乱暴なことをするんじゃ、そもそも社長の許可なんか必要なしい、機械ができた時点で使っちゃえばよかったじゃん。あれじゃただのキチ○イだ。ここも、まるでキチ○イのように暴走せざるを得ないような心理的な葛藤とかが描かれていれば納得いくんだろうけど、そんなことは全く描かれててないし。あれじゃあ単にいかれたオッチャンってだけだ。

で、もうひとつ。ヨハネスブルクの警察システムってどうなってるの?犯罪者を取り締まる仕組みっていうのは、こんな企業に一任できてるわけなの?汎用ロボットを辞めにして軍人の機械を使うにしても、警察の許可を得たりとか、そういうのはないわけなの?

まぁまぁ、これは映画だ。。。細かいことは抜きにしよう。。。これはSFじゃない。ファンタジーだ。ここまでいくとおとぎ話としてみるしかない。そうしてみると、無垢な少年が運悪く劣悪な環境で育てられて、偏ったものの見方をするようになってしまったっていうのはとても考えさせることだ。きっと、ヨハネスブルクにはこうした環境があるのだろうな。ギャングスタを目指さなければならないような環境的な不遇さがきっとあるんだ。そして、物語としてよくできているところとして、僕も感動したのは、チャッピーが自分自身の偏ったものの見方をしながらも、倫理的な葛藤を経験して、人殺しをした軍人を許したところだ。苦しかっただろうなぁ・・・自分の母親を殺した相手を許したのだものな・・・でもさ・・・もしそれを訴えたかったのなら、そもそもSFの体裁をとる必要があったの?なんだかね、商業的な成功と監督自身の訴えを成就させるために、SF的な世界観が利用されてる感じがしてならないんだ。

CGがリアルなばっかりに、ハードSF的なまっとうな映画だと錯覚してしまうけど、ひとつひとつひも解いてみれば、中学生が思いついたおとぎ話って感じのようだ。

そして、もっとも脅威に感じたのは、この映画の評価が高いってとこ!
うーん・・・。倫理観を人質に取られた表現をされると、人は肯定せざるを得ないということなのだろうか・・・。もしこの映画を否定しちゃったら、あの不遇でかわいそうなチャッピーを否定しちゃうことにもなっちゃうし、そんなことはなかなかできないことでもあるよね。でもそう考えるとちょっと怖いな。倫理観を人質にとられても、その不合理さや理不尽さを見抜ける視点を鍛えたいものだ。

そうだ・・・「エリジウム」も突っ込みどころが満載だったな・・・。あんな危険な真似をして住めるかどうかわからないエリジウムを目指すのなら、医療ポッドの設計図を盗み出して地上で組み立てられるようにした方がよかったじゃない・・・。